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プチ家出の参考例

些細なことが積み重なって、家出をした。頭中の理性を総動員して、何とかその場は堪えたけれど、旦那から「ブチギレた顔をしているよ。なにかあったの?」と聞かれた。この場合の「なにかあったの?」は、なんというか、形式的なもの。旦那は薄々気づいているだろう。わたしもこれまで、散々言ってきたことであるので、今更言わなかった。ただ夕飯の支度して、一晩泊まる準備をして、財布を持って家を出た。

駅前の陸橋では、三組くらいのミュージシャンがギターを弾きながら歌っていた。彼らのお友達と思しき人たちが、嬉しそうに彼らの勇姿を写真に収めていた。どこにいこう、と思った。以前行って美味しかった店に入店した。店内は満席で、会社員たちの賑やかな話し声がひどく心地よかった。注文して、ご飯を食べながら本を読んでいた。焼きおにぎり茶漬けと、ゴボウの卵焼きが絶品だった。次第に、会計を済ませる人が増える。人がどんどんと疎になって、店内が静かになった。気がつけば、わたしは最後の客だった。お会計をして、店を出た。

誰の顔も見たくなかった。ホテルに泊まるつもりだったが、歌でもうたおうかと思って、ビックエコーに入った。宇多田ヒカルを歌った。カラオケなんて、久々だったせいか、ドリンクバーでお茶汲む時間も惜しかった。時間になって、三十分延長して、店を出た。
あんまりお金を使うわけにもいかないで、ホテルには行かず、セブンイレブンで珈琲を買って、飲みながら帰った。ほお、深夜の駅前って、こんななんだ、と思った。いかにも悪そうな人々がたくさんいる。駅舎の上に、冴え冴えとした月が架かっていた。

嫁に来てからというものの、わたしの心は無きものとして扱われる。わたしがどれだけ、「嫌なんだ」と主張しても、他大多数にとってそれは好ましい状況であるので、いつも笑って一蹴される。それどころか、親愛なる義理のママンに至っては、あたりがたい説教まで賜わってしまう。「お嫁さんってそういうものなのよ。」本当に小さな頃から、わたしの心を認めてくれる人が傍にいない。わたしの傍にいる人間は、何故かみなおしなべて、わたしの心を無視して、ひとりよがりの愛を押し付ける。あなたがたの、心に寄り添ってきた、わたしの心は、ここにあるのですよ。「人の心が分からない人間だっているんだよ」と旦那が言います。「分かろうとしないだけでは」とわたしが言います。「ほんとに分からないんだ」と彼が言います。わたしの心を認めてくれたのは、今は亡き義父だけだった。お義父さんは、お義母さんに対してずっと同じことで怒っていました。「どうして人の心が分からないんだ、おれはそれが嫌だって言ってるんだ、やめてほしいんだ」。わたしも同じことで怒りを抱き続けています、あなたの奥さまに、あなたの息子たちに。みんな、分からないんです、ここの人たちは。

「自分の感受性くらい自分で守れ」という有名な詩がありますね。我らがdir en greyの京さんも、「心を失った訳は自分の弱さだ」と歌っています。だけどわたしは、たまに言いたくなることがあります。わたしの心を返してください。この五年間で少しずつ奪われていった、わたしの心、どうしたら取り戻せますか。


梅が綺麗だ

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