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『無知の知』と『病識』

『無知の知』は有名なギリシャの哲学者ソクラテスの言葉とされている。そして『病識』は医学用語で主に心療内科領域の患者が自分の病状を自覚してるかどうかを示すのに使われることが多い言葉。
この二つについて少し考えたいと思います。

《フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から》
【無知の知(むちのち)は、ソクラテスによる哲学からの言葉。】
〈自らの無知を自覚することこそが、真の認識に至る道であるということ。自らは様々な先入観や思い込みにとらわれているということを知ったり自覚するということ。〉
上記のように説明されています。
ソクラテスはこのことに気が付き、多くの知識人を論破してしまったため、怒りを買い、死刑になったとされています。

そして同じく《フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から》
病識(びょうしき)は、その人が病的な状態にあることを自分で認めていることを指す。病的な状態にある人が、自分が病気であることを自認している(自分で認めている)ことを「病識がある」と言う。一方、病的な状態であるにもかかわらず、自分が病気であることを自認していない状態を「病識が無い」と言う(病識欠如)。
一般的には、統合失調症、認知症などでこの用語を使うことが多いようです。自分を担当している作業療法士さんもそのように言っていました。

『無知の知』と『病識』使われ方も時代背景も違う二つの言葉
ソクラテスはこの言葉から人間の不完全さに気づき、現代で言えば発信したために短い生涯を終えることになった。
そして病識の欠如は自分自身または家族の健康上の変化への無知が必要な治療行為を遅らせたり、拒否してしまう為に場合によっては天寿を全うすることなく生涯を終えることがあるらしい。
 
 ソクラテスの時代も21世紀の現代になっても、ヒトは、知識不足、認識不足を認めたくない動物なのだなあと最近思います。

 いろいろな場面で、「自分の意見は絶対」「これをやれば絶対」と言うことを語る方に出会うことが多くて、正直どんな肩書、役職の方でも安易にそういうことをいう人の話は信じる気にはなれません。
 そもそも人間(すべての動植物?)は不完全な存在で、絶対的な正解はないと思っているから。
 病気の治療にしても然りで、医者や医療関係者がすべてわかっているわけではない、なので当事者である患者自身が自分の状態を冷静かつ俯瞰的に観察して、できる範囲で記録していくのが大事なのかなと思っています。
 「つらい」「苦しい」と言い続けるのは、ある意味簡単、そこに、例えば「その日」「その時」の血圧だったり、体温だったりを記録していくことで、気持ちと身体的変化の関係性が見えてくるような気がしています。
 自分は、高卒で医療系には、病気の当事者と言う以外病気との接点はない人間、自分の考えが正解であるとは、思っていませんが、正解と思う方法を継続していこうと思っています。
素人の独り言でした。
 
 



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