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【Take Me To The Other Side Of The Moon】

 道の先、手をあげる人。まだ熱さの残るアスファルト。一台のセダンタクシーが音を消したように停車し、するりとドアを開ける。つばの広いバケットハットに軽く手を添えながら清潔な白いワンピースに身を包んだ女性が乗り込み、ドライバーに尋ねる。

「すいません、少しこの辺りを走っていただけませんか?変なお願いですよね。お金はあります。先にいくらか渡しておきます。一万円いったん渡します。お願いします。東京の街を走ってください」
「かしこまりました。では扉を閉めますね」
 女性をのせたタクシーが走り出す。赤坂の街を出発し、坂道を抜けてやや混雑した下道を走る。

「すいません、変なお願いをしてしまって。あ、お金足りなくなったら言ってください」
 ドライバーの男は先程財布の中にたくさんの一万円札が入っていることをチラリと確認している。運賃踏み倒しのリスクは低そうだ、そう判断していた。
「構いませんよ、お金さえいただければ。お客様のおっしゃる通りの場所まで運転しますので、どこか目的の場所が思いついたら言ってください」

 御徒町の駅の周辺に差し掛かる。広い車道が伸びる松坂屋のあたりを、急ぐ車のライトが空を見上げるように走る。時折大きな交差点で止まり、酔い始めの人々が楽しそうに道を渡る。
「何があったのかとか、聞かないんですか?」
「こちらから聞くことはございません」
 女性の映るバックミラーの中でテールランプがぼやけては重なる。
「どこか行きたい場所は思いつきましたか?」
「そうですね、どこかウキウキした気分になれる場所。ドライバーさん、そんな場所はないかしら」
「御意」

 憂鬱な顔が映り込んだ窓の先に広がる夜の街を見送りながら思う。夜の東京、なんて不思議な街だろう。何もかもが新しいようで、何もかもが時代遅れのようで。どのようにもとらえどころのない街。次第に景色の中の建物の背が低くなり、街の人々の視線の高さが変わる頃、タクシーが停車した。
「着きましたよ」
「ここはどこかしら」
「仰せの通り、ウキウキした気分になれる場所でございます」
「ぎゅ、牛丼屋さん?ここは牛丼屋さんではありませんか?」
「左様でございます。吉野家は三軒茶屋店であります。数ある吉野家の中でもこの店の夜の牛丼には定評がございます」
「え、同じ吉野家さんでも得意不得意が?」
「否。そこは天下の吉野家、提供している商品全てが全店舗の得意料理であります。しかしこの三軒茶屋店、夜八時以降は魔法のかかったようにさらに牛丼が美味しく感じられるというそんな都市伝説がございます。まずは論より証拠、ここは私の采配にお任せいただきたく」
「なんだかわからないけれど、ウキウキしてまいりました」
「ほら、届きました。大盛りの牛丼がこんなに早く。ここは私に倣ってください。生卵、まずはこいつを割ります。目を閉じて殻の中に揺れる卵黄を想像してください。たぷん、たぷん、白身の海に揺れる黄色い卵黄。ゆらりゆらり。これを私たちの手で世に放ちます」
「お腹が空いてまいりました」
「しっ、悟られてはいけない。私たちのことを卵に悟られてはいけません。どうぞ心を穏やかに。割りますよ、あっ、あっ、割れたっ!白身に黄身も、あっ、うまく器に入れてください!こころ穏やかに!いきますよ!せーのっ!ほいっ、うまくいった!はい、卵!間髪入れず混ぜて、混ぜて混ぜて混ぜて!牛丼の上にっ!どろーん!はいっ、つぎは紅生姜を上に乗せて!見た目は気にせず!容赦なく!どどーん!容赦しちゃ、いけなーい!最高にうまい牛丼のためです!牛の供養と思って!そう、そうそうそうそう、そうです、いい紅生姜です。いい具合に盛られてる!あぁ、あぁもうがまんできないぃ、かき込みますよ!牛丼が液体になったと想像して、ウキウキしたハートに牛丼を全力でぶつけてください!ジャブジャブジャブ、うま〜んい!!痺れルゥ、お口が紅生姜で痺れルゥのに生卵の優しさが救済してくれるぅ!旨みのサルベージ!うまいです、うまいです、うまいです、これうまいです、ぎゅ、ぎゅうううぅぅぅぅぅ、ぅふん、牛が置き去りにされてるぅぅぅぅ!それぐらい紅生姜と汁だくの飯が卵と合わさって快楽ぅ!牛丼なのにこのギュウの影の薄さなに?大盛りなのに置き去りよぉ……助けなきゃ……ねぇ、ねぇ、ギュウを助けなきゃ……どうする…どうする…そう、そうだ!七味を!フリフリフリフリフリフリ、うま〜い!牛が息吹き返した!モゥモゥモゥって四足歩行開始したっ、もうこの鈍牛!鈍牛、鈍牛、鈍牛!ウスノロめ、うまさが出遅れるなんて、鈍牛!」
「だ、大丈夫ですか?急に人が変わったように…」
「もちろん私は平気です。ウキウキは楽しんでいただけましたか?」
「はい。食べたことがないのですけど、牛丼にこんな魅力があっただなんて。気づけてよかったです」
「それはよかった。支払いは後で合わせてで構いません。タクシーへ戻りましょう、メーターを入れたままだ」
 二人はやや足早で戻り、何事もなかったかのようにタクシーが走り出す。

「次はどちらまで?」
「そうね。ドライバーさん。まだわたしが何も知らない世界、新鮮な気分になりたいわ」
「御意」

 タクシーはトゥーランドットを穏やかに流しながら来た道の方へ向かう。『誰も寝てはならぬ』、牛丼で満たされた腹にそうパヴァロッティが歌い上げる。蒸した空気を湛えながら。
「ドライバーさん、あの、わたし鹿島由美香と申します」
「御意。由美香さん、これより先はうかつに大きな声を出してはなりませぬ。幾分危険な場所ゆえ」
「かしこまりました」
 由美香は小さな声でうなづく。緊張感をたたえたままタクシーが時間貸しの駐車場に停車した。

「いらっしゃいまし」
 磨き抜かれた白木のカウンター。凛とした寿司職人。魚の香りの全くせぬほどに研ぎ澄まされた空気。音を出さずにしっかりと効いた空調。
「くれぐれも、大きな声を出されぬよう」
「ここは?」
「銀座のとある鮨屋です。季節を問わず、最高の魚が集まる場所です。あるセキュリティ業務のため店名を告げることはできませぬが、今夜ここで国際的なVIPが食事をされる予定なのです。そこでこの私が前もって毒味をして安全を確保する、実はそういった任務を任されているのですよ」
「なるほど…」
「このVIP、高級なネタを特に好むと聞いています。その辺りを重点的に調べてまいりましょう。私は怪しまれぬように観光で来た外国人のふりをします」

 お任せで握られていく鮨をひと通りたいらげ、男は歓喜する。

「ウー二!オートーロ!ヒラーメ、ビューティフルサマータイム!イクーラモサイコウダヨ!
マスター、ワタシジャパンヲリスペクトシマス!スーシーハ、アートデス
コノアワビトイウカイデスカ  コレモマタワンダフル
   オオトロモットクダサイ!アナゴモアブッテクダサイ! アレ
リンリンリンリンリン、 ギョグンタンチキガハンノウシタ コウキュウギョノソンザイヲカンチシテマス
  ヘイマスター!ナニカマダカクシテルヨ!
タダチニニギッテクダサイ!ソノカクシテイルモノヲ!
オカネハチャントシハライマス!ウムム、マツカワガレイトイイマスカ!アウトスタンディング!           ウマスギテムナクソワルイデス!
 イママデタベテキタスシスベテニ、フマンゾクヲオボエルクライダヨ!
       カコヘサカノボッテデモネ!スシノジョウシキヲクツガエスヨ!
ツミナオミセダヨホントニサ!
スッカリワタシハエドノオスシニドクサレテシマッタヨホントニサ!」

「ど、毒された?大丈夫ですか?」
「しっ、どうか落ち着いて。確かに私は毒されてしまったようです。このような重大な任務の最中に不甲斐ない。そうだ!近くに漢方を処方してくれる中国系のお店がある。そこへ行って解毒をお願いすればこの身は。さ、善は急げです。早くお会計を済ませてここを出ましょう。私には時間がない、くっ、足先の感覚が、不甲斐ない、誠に不甲斐ない。毒が回り始めてきたようです!」

 ドライバーは軽く胸を抑え、息切れしながらも駐車料金の支払い方を由美香に教えて急いでタクシーに乗り込んだ。向かった先は銀座アスター本店。席に案内されメニューを受け取る。店員がテーブルを離れ、二人はよく磨かれたメニューを開く。
「はぁはぁ、どうやら間に合いました。そう、ここにフカヒレというサメのヒレを乾燥させた漢方がある。それを頂けば解毒となる。ぐふっ、しまった…毒がだいぶ回ってきたようだ」
 そう言ってドライバーが振り返り店員に向かって軽く手を振った。
「すみませんが、フカヒレのスープを三人前お願いします。ええ、三人前です。ヒレは大きめのもので構いません」

 店員が厨房へ注文を回す。料理長らしき男が目を丸くして二人のテーブルを見た。目があった由美香は軽く会釈をして再びドライバーと向き合った。
「三人前、三人前もあれば毒もなんとかなるはずだ…ううっ、急いでフカヒレの煮込みを3人前食べなければ…私一人でなんとか三人前を……う、ううっ、く、苦しい、苦しい、苦しいっ」
「すいません、わたしのわがままのためにこんなことに…」
「どうか、ど、どうか、お気になさらぬように。お客様の望む行き先まで安全にお届けするのが私の務めでありますから…」
 ドライバーは軽く目を閉じた。だいぶ辛そうだ。二十分ほどの後、一瞬厨房が静まり返り、湯気を上げながら三皿の立派なフカヒレの姿煮が運ばれてきた。
「さぁ、きたきた、きたよ解毒の漢方が!わぁ、こいつはうまそうだ!湯気までうまいぞ、んまふふ、いったダッキまぁ〜す!いったダッキマンも〜す!」
 ズビズビズビズビズビズビッ、フカヒレを下品にすすり込む音が店内に響き渡る。ヂュルヂュルヂュルヂュルヂュル。その音をバックグラウンドミュージックにするかのように突然由美香が語り始めた。
「サメさん、サメさん、きっと大事な忘れ物。背中のおヒレの忘れ物!雨の日は多いのよね、大事な背鰭の忘れ物。千葉中央駅まで回収に行って頂戴!乾燥してるから日持ちはすると思うけど!でも急いで回収を!雨で濡れでもしたら大変よ!背中のヒレの忘れ物!」
 小さな声で、それでいてオペラの舞台のように見事な表情で。
「どうしました、急に?」
「いや、すいません。ドライバーさんが楽しそうに何かを食べるのを見てたら、わたしまで何かに身を任せたくなったんです。頭に映る情景。それを言葉にしてみよう、そう思ったんです」
「そうですか、それならよかった。さぁ、車へ戻りましょう、メーターは進むばかりです」
「はい、そうしましょう。漢方もきいてきたようだし、次の場所へ行きましょう」

 タクシーの中にはBOOWYのDreamin’が流れている。彼女の中の何かが変わり、目に映る景色が変わる。まだ明かりのついたビル、飲食店の柔い光、それらがリズムを持ってお皿に落としたばかりのプリンのように揺れる。その側を車が走る。時間の進み方が変わる。
「お客様、もう今日が終わります。どこか行き先は思いつきますか?」
「もうすぐ、行き先が思い浮かびそうです。そうだドライバーさん、少しお話をしませんか。タクシーを走らせながら。お願いします。止まらずに走ってください」
「かしこまりました。何について話しましょうか」
「ドライバーさん、なぜタクシーのドライバーに?」
「そうですね。私はね、夢を見てるんです。でも具体的に何になりたい、そういったわけではない。じゃあなんの夢をみてるのかって思うでしょう?誰かの夢をみてるんです。なんでもない自分がね、ある日突然他の誰かになる。毎日いろんな人を乗せてると、そんな錯覚を覚えながら他人の人生を少しづつ経験していく。優れた書物を読むような感覚といえばいいのでしょうか。ほんの数ページだけれど自分の中にその人の感情や思想、哲学が入ってくる。それが自分の何かの夢に繋がっていくのかどうか、そんなことはわからないけれど、私は今もそうやって夢を見てるんです。誰かの見る夢を。この感覚の意味を知りたくて、気づけばもう十年この仕事を続けてます」
「ねえ、ドライバーさん。見えますか?わたしの夢」
「ええ、見えますよ」
「このタクシーに乗ってよかったわ。ありがとう、ドライバーさん」
「そういっていただけると光栄です。聞かないんですか?どんな夢かって」
「ええ。今はもう少しだけこのままでいたいんです」
「御意。さぁ、行き先を。まもなく今日が終わります」
「東京の真ん中へ!わたしを東京の真ん中へ連れて行って!」
「御意」

 人工の光が街の時間を進める。人工の光に人が集まる。明るいうちには感じなかった音、匂い。これが東京の真ん中。
 海の中にいるようだ、由美香はそう思った。時に強い潮にその華奢な体を持っていかれるかのように、触れてもいない人の波にさらわれる。何万もの月の光が水面を照らし、人はさらに明るい光を求めて彷徨い続ける。
 雑踏のその先の車もろくに通れないほどとっ散らかった路地にその店はあった。もう深夜に近いというのに人の賑わいはすごく、二人は奥まった席へ案内される。
「ここは?」
「見ての通り、新宿の中華料理屋です。日本語はあまり通じませんがとにかく味がうまいことで有名です。盛りも申し分なし。この街の夜の胃袋を満たし続けてもう何十年にもなる。そんな店です」
「そんなお店。すごい…なにを…食べましょうか」
「その心配はご無用。食べたいものはすでにここに」
 男は左手の人差し指をゆっくりと捻るように自分のこめかみに当ててから店員を呼んだ。慣れた感じで店の女性に注文をし、その女性がその場で厨房にオーダーを通す。店員同士が大きな声でやりとりする様子にこの場の熱気を感じる。
 勢いよく鍋と火と食材が擦れ合う音がテンポ良く響く。料理を耳で味わい始めたのか、厨房を背にしたドライバーは薄く目を細め、少し顎を上げてその音を噛み締めるかのような表情でそこにいた。そして厨房からは音に合わせて渦を巻くように熱が上がる様子が伝わってくる。どこか神事のようでもある。音を立てて、炎をあげて、人はその恵みに舞う。そんな景色が浮かんできた。由美香を現実に戻すかのようにオタマが鍋底を叩く音が高く響き、二人の料理が出来上がった。
 イカを油通しし、青菜とあんかけに仕上げた料理。塩漬けの雪菜と豆腐の炒め物。せっかちで我儘な空腹に備えて手早く出せる料理も用意されている。その代表がクラゲなどの冷菜。その他には空腹をさらに呼び覚ますような酸味の効いたキノコのスープ。じっとりと脂の艶が浮かぶ豚の旨煮。どれも贅沢な食材を使ったものではないが、見た目も香りも存分にその旨さを伝えてくる。
「あふっ、あふっ、あふっ、あふい、あふいけどおいひい、あぁん、イカのこのプリプリ、ねぇ、いつからこんなプリプリになったってのよ、ねぇ、なに、炒めた野菜シャキシャキしちゃって、それになに、このクラゲ、コリコリコリコリ!不快なくらい歯に挟んで帰ってやる!後で偶然見つけて、舌でねしくって再度美味堪能してやるんだから!明日のさ、予定とかさ、もう気にできないくらい胃に詰め込んでやるんだから!他人の金で、詰め込んでやるんだから!」
 ドライバーの衰えることのない食欲に由美香は圧倒されっぱなしだ。
「このメス豚!旨く煮切られやがって、今日と言う今日は絶対に許しませんことよ、このメス豚野郎め!なんだいそのあられもない姿は!丸裸じゃないか!悪いのはこの桃尻かっ、悪いのはこの桃尻かっ!応えてごらんなさいよ、このメス豚!なんだってこんなに美味しく煮られてるんだい!いつからだい!いつから煮られてたんだい!この厳しい残暑の中煮られて煮られて煮られっぱなしでさぁ、恥ずかしいと思わないのかい!だからいつまでもメス豚よばわりされるのさ!ほんっとに恥ずかしいよわたしゎ、こんな姿ばかり見せつけられてさぁ!なんか返事をしい!」
 優れた料理に優れた食べ手。勢いよく作られた料理がそのままのリズムを奏でながら胃に送り込まれていく。
「あ、あのう。お食事中すいません。相談があるんです、ドライバーさん」
「あぁ、どうされました?」
「実はわたし、お金はたくさんあるんです。でも人生を何か変えたくて今日はこんな無理なお願いをしたんです。ドライバーさんの連れてきてくれた場所はどこもわたしの知らない世界ばかりで、わたし思ったんです。わたし、海外へ出たい。なにができるわけじゃないけれど、もっと世界を知りたい!自分を試してみたいんです!」
「そうですか、とうとう悩みを打ち明けてくださいましたね。ここは私なりの見解を述べさせていただきます。あくまで私の見解です。答えではありません。答えは自分で出してください」
「はい。ドライバーさんの見解、聞かせてください」
 テーブルの上の料理はあらかた食べ終わっていた。いつの間に頼んだのか、シメの杏仁豆腐が運ばれてくる。
「まず、今のあなたが海外へ生活の拠点を移すとする。まず語学、何か第二言語を話すことはできますか?」
 艶やかでしっかりと素材の詰まった杏仁豆腐。
「学校で教わった程度の英語です。でもわたし頑張ります!」
「よろしい。あまり流暢でない英語、たくさんあるお金、ビザはどうするおつもりか?」
「学生でもいいんです、まずは現地での生活を。そのためにお金だってあります」
「よろしい。学生ビザで現地へ渡航する。そしてお金は十分ある。英語は現地で学ぶ。十分です、あなたは現地であなた自身を何も変えることはできないと思う」
 缶詰のさくらんぼは姿勢を変えずに杏仁豆腐の上にある。
「な、なぜでしょう?」
「現地に住む。それと現地で生活の基盤を築く。これは大きく違います。あなたは現地に住むことができる。なんなら明日からでも。でもそれは貯金を切り崩して現地にいるだけに過ぎない。なぜならあなたの目標はただ現地にいることのように聞こえるからです。そこで何を成そうというものではない」
「といいますと?」
「まず、おそらくあなたは現地でいい仕事を得ることができない。言葉の壁が立ちはだかります。流暢に現地の言葉を話すわけでもなく、なにか特別な技術があるわけでもなく、ただ金だけがある。一番危険です。誰かにカモにされるかもしれない。危険です。奥へ来てください。厨房の一番奥、洗い場の若い子がいます。おそらく留学生でしょう。日本語があまり得意なわけではない。だから同じ国の人たちの働く場所で働いている。毎日必死に勉強して、さらに今できる仕事をこなして、一日が終わる。あなたは彼になる覚悟はありますか?毎日遊ぶ余裕なんてないです。誰も知っている人のいない街で、頼りにできる人もなく、お金だっておそらく限られている。あなたにできますか?そこまで頑張る覚悟はおありですか?そこまでして頑張った後、その場所であなたは何になるのですか?彼は努力が実れば立派な学業を修め、未来を生きるでしょう。ではあなたは?」
「ドライバーさん、わたしは自分を変えたいとか嘘をついていたのかもしれません。自分を変えるだけなら今ここでもできますもんね。多分、たくさんのことから目を逸らしていたのかも。ドライバーさん。真剣に答えてくださってありがとうございます」
「いえ。安易に人生を踏み出すよりか、今は考える時期なのでしょう」
「そうかもしれませんね。本当に今日はありがとうございました」
「街を案内した甲斐があります」
「杏仁豆腐、わたしもいただいていいかしら」
「もちろん、あなたの支払うものですから」


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 中華屋をでて、タクシーに乗る。
「ご自宅まででよろしいですか?」
「はい、お願いします。港区の方へ」
「御意」
 ビル・エバンスのThe Two Lonely Peopleが流れている。タクシーは海風を遠くに見つけて街を走る。
「ドライバーさん、次の交差点を左に曲がったところで停めてください」
「かしこまりました」ゆっくりと、緩やかにタクシーが停車する。
「月が綺麗。ねぇ、ドライバーさん。わたしを月の裏側へ連れていって、もしそう頼んだらどうします?」
「お支払い可能であればお連れします。もちろんお時間はいただきますが。でもね、月の裏側へ行ってもそこには月の裏側があるだけですよ」
「そうね、そうかもしれない。でも時々ね、月の裏側でなきゃいけないこともあると思うの。表だけをみていては見えないもの、そんなものもあると思うの。だから実際にそこへ行ってみる。そんなことが大事なことになる時期も人生にはあると思うの」
「そうですね。そんな時期もあるかもしれない。でもね、月の裏側ったってあれは球体です。お菓子のおまけのシールみたいに表に絵が描いてあって裏に説明が書いてあるってわけじゃない。球体。ただこっちからは見えないから裏側って我々が呼んでるってだけです。月の表も裏も全部まん丸ひとつづきなんです」
「お支払いはいくらかしら」
「こちらです。領収書は?」
「領収書は結構です。わたし、お金だけはあるんです」
「ええ、知ってますよ」
「ふふふ。本当に今日はありがとう。不思議な旅でした。もう何日もそうしていたような、不思議な旅」
「こちらこそ、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」


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 帰り道、月に照らされてタクシーは東京の街を走る。月の向こうから、自分たちはどう写るだろう。男はそんなことを考えたが、すぐにやめた。


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 道の先、手をあげる人。停車し、ドアを開ける。少し酔った様子の派手な格好をした女性が二人乗り込んでくる。
「お客さん、どちらまで?」
「ねえドライバーさん、朝日が綺麗に昇る場所まで連れてってちょうだい」

「御意」


























 
 

































【完】





















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