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情報が多いせいで、昔よりもずっと簡単にずっと論理的に夢を諦めてしまうようになった。

自分のことを「偏見を持たない人間だ」と、言える人はどれだけいるだろうか。
もしそう言えたとしても、それは「その人の生きてる世界の中で」という限定的な条件付きのことだと言えるのかもしれない。

ただの区別が偏見や差別になることもある。
こういう判断は、受け手と出し手の関係性によって変化しうる。

「犬」という動物しか知らない人に、犬を判別することはできない

この世界に存在する動物を「犬」しか知らない人がいるとする。
その人は、「犬である条件」を知っていても「犬でない条件」は知らない。だから目の前の動物が犬なのか別の動物なのかという判別をすることができない。

このロジックでは、変わった形の犬を「犬ではない」と認識し、犬に似た他の動物を「犬」と認識してしまう。犬という情報をどんなに完璧に捉えていたとしても、犬でないものの情報がない限り、犬を客観視することができない。

「そのものに対する知識」だけを知っていても、そのものを深く知ることはできない。むしろ「そのこと以外のこと」に対する知識が、そのものをより良く知る判断材料となる。客観視をすることは偏見を取り除くかどうかの鍵を握ることになる。


出来ることが少ないと、それが強みになることもある

出来ることを極限まで絞れば、それが強みになることもある。
例えば日本語しか話すことができない幼稚園児に、英語で洗脳することはできない。

知れば知るほど、世界は広がるかも知れない。
でも、何かに特化して他の何かは全く知らないという状態が価値を発揮することもある。

今は一人一人がスマホを持つ時代で色々な情報にアクセスできるので、youtubeやtwitterでたくさんの才能に触れることができる。
そこで自分の才能と比べてしまう。つまり、自分の可能性をある程度は測ることができてしまう。「この程度ならばできるだろう」「これには届かないかも知れない」というのが簡単にわかってしまう。昔よりもずっと簡単に、ずっと論理的に夢を諦めてしまう。

だからこそ、「できないこと」「知らないこと」というのは大切な才能であったりもするのかもしれない。

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