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文明批評

久しぶりに批評を書く。
なにか特定の作品についてということではなく、この資本主義文明について。
私は過激派文化活動家なので、ここには忖度無しで書く。

もはや「芸術」や「演劇」の文脈ゲームの中で籠城するだけの「アーティスト」というリベラル崩れの人々には、現代社会に呼応する創造性など持ちようもないのは火を見るより明らかだ。
「アーティスト」などと名乗ることが、いかに恥ずかしいことか、自覚しなければいけない。
もちろん、それぞれのフィールドで豊かな時空間を創造する仕事は精一杯頑張っている人たちがいる。しかし呑気に現状を肯定していられるような状況にないと判断し、かなり強引で失敗の可能性もあるやり方だが、過激派による批評を展開し、状況をちょっとでもラディカルな問いへと向けていければと考えている。

以前はここまで思うことはなかった。だけどあることがきっかけで、考えが変わった。
新型コロナワクチンだ。

私はワクチンを2回打った。あの当時、はやくコロナ禍の制限を終わらせたくて、それが唯一の解決策だと信じ込まされて、疑いもせず、ワクチンを打った。1回目、ひどい熱が出た。2回目、もっとひどい熱で2日間寝込んで、苦しんだ。でも、その後は何もなく過ごせていたので、大丈夫だと思っていた。
それからしばらくして、私が最も影響を受けているとある人から、このワクチンの危険性を教えられた。そのときは、まだあまり本気にして聞いていなかったが、後に自分で詳細に調べていくと、このワクチンがいかに多くの人を殺し、後遺症を残しているかが厚生労働省のデータからも読み取れることがわかった。他にも超過死亡数がワクチンを打ったタイミングで爆増し、認定されていない死亡者ははるかに多くに及ぶこともわかった。それを知ったのが、今年の3月のことだった。気になる方は自身で調べてみてください。

4月18日、これまでこのような事実が次々に明らかになっていたにも関わらず、一切ワクチン被害の実態について報道してこなかったNHKも含めた大手メディアが、国を相手にワクチン被害者の会が訴訟を起こした一件を一斉に報じた。その報道には、確かにこれまでひた隠しにされてきたワクチン被害の実態も含まれていた。

子供が多く亡くなっている。なんの補償もまだ受けられていない遺族も多くいる。パートナーを失った人が数多いる。原因をはぐらかされたまま放置されている人もいっぱいいる。

そんな中、今日本にはワクチンの工場が建設され始めている。モデルナは日本にワクチンをまだ売るそうだし、国会では感染症対策として、パンデミック初期でも権限集中が可能なように法改正を進めている。

これが目の前の危機でなくてなんなのか。今まで私を含めた「アーティスト」は何をしていたんだ?
この状況になるまで、何もできなかった。気づいた人もいたが、状況を大きく変えることはできなかった。人々が普通察知できない危機にいち早く感づいて知らせたり、問題提起したりするためにアーティストが社会に機能する、とか、社会に問題提起していく、とか、もう恥ずかしくてそんなこと言えない。
なぜならアーティストは権力側にとっては、無害で、社会問題のガス抜きをしてくれる、「リベラル崩れ」の助成金で飼いならせるかわいいペットに過ぎないからだ。

パレスチナの戦争については、声を上げる人々も多かった。明らかな暴力の構造があったし、目に見えてどっちが悪いのかがわかりやすかったからだ。しかし、もっと身近にあったワクチンのことについてはどうだったか?戦争反対を叫ぶことも、もちろん重要だが、自国でこれだけの人間が国に見殺しにあっていることには全くノータッチで、「リベラルっぽい」ことだけしか言わない「アーティスト」になんの価値がある?

そもそもコロナ禍の時点で、高校演劇をやっていた私は、過剰な感染対策をさせられてきた。多くの高校はマスクをどうつかって演劇をするかでくだらない工夫合戦をした。長野県の高校では舞台上でも2m以内に近づいてはいけない(マスクをつけたら1メートルまで可)のような厚顔無恥でただの人権侵害そのものであるルールが適応され、審査員はこのルールを守って演劇を作り上げた高校生たちを褒めた。(その高校生たちは確かにすごい。しかし、この構造的で最低な暴力を押し付けられた人々を、このルールについては問題にせず、ただ褒めるのはあまりに最悪な行為だ。)
今思い返しても腸が煮えくり返る。

ワクチンに関しては、それ以上に怒りがこみ上げてくる。製薬会社の利権にまんまとはめられ、戦後最大の薬害をみすみすスルーしてしまった。
グローバリストたちのメディアコントロールにまんまと乗っかり、政府とメディアを疑わず、「作られた世間」の流れに従順で、あたえられたルールの中でしか芸術ができない国なんて民主主義国家を名乗って言い訳がない。
この国は、民主主義国家ではなく、ただの戦前準全体主義国家だ。

問題の根源はワクチンにあるのではない。これを機会に、米を中心として始まったグローバル資本主義の極悪非道さを知った。例の成製薬会社Fは、過去に数多の薬害事件を起こし、和解金で火をもみ消してきた最低の企業だし、戦争が終わらないのも民族間の問題ではなく、軍事産業の影響によるものだと知った。日本では、国家を超越してしまったグローバリストたちの思惑と、長期にわたって日本を支配するカルト家族経営犯罪者集団(自民党政権)が絶妙に噛み合ってしまい、徐々に徐々に国がグローバル資本主義側に売り渡されてきてしまったし、アメリカの思惑通り、戦争のできる国になってしまった。人々はコミュニティを破壊され、連帯の力を奪われた。政治には諦めしかなく、宗教団体や経団連による組織票作戦で選挙による改革の道も絶望的だ。

この国に生まれ、育った20歳の人間として、私は静かに怒っている。このまま戦争して徴兵される未来が、容易に想像できるからだ。

ただ、すべてを諦めたわけではない。ここまでの道のりで、希望の灯火もいくつかあったからだ。手塚夏子さんの「合意のでっちあげ」ワークショップ。私も参加したが、メディアコントロールはどのように行われるのかを、「実験」という体験を伴った議論のためのメディアを作ることで、現実の問題に繊細に触れていくワークショップだった。この「実験」の中で共有された、「死角の作り方」という視点には、何度もメディアによる撹乱を見抜くために有効活用させてもらった。詳しくは手塚夏子さんのホームページから御覧ください。

また、熊倉敬聡さんの「GEIDOU論」や「汎瞑想」からも大きなインスパイアを受けた。早い段階で、資本主義文明からいかに距離を置くか、芸術というものからどう抜け出すかを書いていた方だ。芸術論の極地として、環境論や経済や性愛などもふくめた広大な視野で、西洋近現代文明の代替案をまとめたGEIDOUには、文明を快楽主義的に転回するアイデアが豊富に書き込まれている。

その結果、私は自分の進む道がはるかにクリアに見えるようになった。
あえて今、こうとらえてみることにする。歴史を訂正するのだ。

本来、社会に対して鋭く問題提起をして炭鉱のカナリヤであった「アーティスト」であるわたしたちはこれまで、長い期間をかけて徐々に助成金漬けにさせられ、さもなくば資本主義の波に飲まれて消えるように仕向けられ、コミュニティから断絶されてマニアの巣窟とさせられてしまった。それはわたしたちが権力をもつ側にとって非常に厄介な存在だからだ。アーティストには、人をつなぎ、癒やし、共同体社会に起こる問題について活発な議論を巻き起こし、社会を健全な状態に保つ底力がある。それが向こう側にとってもっとも厄介な力だから、弱らされてしまったのだ。
わたしたちアーティストはこの反省を忘れないことで、今後はメディアコントロールや政府による世論誘導から独立するための術を、実現していく覚悟を決めることができる。アーティストたちが束になって独立を考え始めたら、体制側はビビるだろう。
これはチャンスだ。

これからようやく、業界や資本主義に過度に依存しない、文明を的確に批評し、コミュニティを再建するためのアーティストたちが、日本の各地で立ち上がり、繋がり始めるはずだ。私はそれが楽しみで仕方ない。危機感を共有し、希望を共に手探りに確かめていく仲間が見つかりやすい時代になった。
この批評に、手応えを感じる同世代の人間(同世代じゃなくても)は、気軽に声をかけてほしい。読んだよ、と伝えてくれるだけでもいい。これから、そういう人たちでちゃんと横でつながって助け合えたり批評し会えるネットワークを、実践可能な資本主義文明の代替案として作りたいと考えている。詳しくは、「現代文明避難マニュアル」という避難マニュアルのような、戯曲のようなものをつくるつもりなのでそこで書きます。

まだ完全版ではないので、この批評はまだ修正されていくと思いますが、とりあえずここまでで締めておきます。過激派文化活動家としての意見なので、あえて激しめに書いているところもあります。読んでいただき、ありがとうございました。










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