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未来の万博(仮)のためのレポート(2つの空港と2つのスペクタクル) 2

未来の万博に向けたリサーチを続けています。今回は、沖縄に行って見てきたものごとを共有したいと思います。

そもそも沖縄は、僕の母の生まれの地であり、祖父母の故郷です。小学生の頃は毎年行っていたのですが、中学生以降部活も忙しくなりいけなくなって8年がたったのち、久々に沖縄に行きました。
その理由は、祖父が認知症を患ったことです。タイミングをのがしたら後悔すると思い、行きました。

久しぶりに祖父母、叔父、叔母、いとこと集まり、飲み食いしました。とても楽しかった。祖父は僕と兄の判別もやっとつくかつかないか、年齢も名前も危うかったです。でも記憶にその存在は残っているようでした。不思議なことに、孫であること、祖父であること、それを信じることができることだけでもなにか満たされていくようでした。長いこと遠く離れていたのに、結局家族になっていく、そのじんわりした時間がなんとも言い難かったです。
自分の中でなにか、確信めいたものがうごいたのを感じました。ここが故郷だと思うことが、今の自分にはできたのでした。風景に懐かしさを感じ、家族の痕跡を発見することで、その街と急速に仲を深めていくようでした。


沖縄の街 不思議と落ち着く

次の日、嘉手納基地に行きました。基地に行くのも久しぶりで、小学校の時行った以来なので、感じることの幅が大きく変わっていました。高いフェンスがずっと続く道を行きます。有刺鉄線があり、入れないようになっている。その中で起こっていることは、こちらは把握できないようです。広大な滑走路に、物騒な軍用機や、その格納庫が見えます。とにかく広く、うるさく、恐ろしい。これはまるで、もう一つの空港のようだな、と思いました。


嘉手納基地
セントレア

僕は空港が好きでした。セントレア。那覇空港。未来都市のようなその建築は、天井が高くてピカピカしていて、これから始まる未来を高々と歌い上げてくれる。見渡す限り未来のスペクタクル!思えば、これがある種の万博体験かもしれないです。未来を礼賛する空港は、僕の小さい頃の夢「空を飛びたい」を叶えてくれたのだと思いますし、その夢の痕跡は20になった僕をまだワクワクさせる燃料になりました。
まあでも純粋にはそんなこと思えなくなりました。世界の不都合を知って、じめっとした青年になりました。戦争の焼け跡をなかったコトにしてしまうような底抜けの明るさは信じることができなくなりました。

しかし、今目の前に広がっているのは、未来を礼賛するスペクタクル建築ではなく、戦火を想像させるスペクタクルです。戦場への空港。沈まない母艦としての沖縄。轟音の軍用機がいつ部品を落とすかわからないのに頭上を飛んでいく。その中で子どもたちは授業を受けるし、大学にはヘリが墜落している。平和とは言えないような環境でした。でも、そのなかでも人々はしたたかに生きています。基地でも働きます。基地を眺める道の駅でも商売をシます。生きることは、正義だけでは語れないことでした。
示唆的なのは、世界はまさに、この2つのスペクタクルに二極化され、その間の宙吊りにされた人々が漠然とした不安、そしてコントロールの危機にさらされているのかもしれない、と思いました。
未来へのスペクタクルと、地獄のスペクタクルが、同じ時間に存在してしまう世界があり、渦中の人々は天井なしの地獄に落ちて、かたや天井のなしの希望を夢見る。そのどちらにも属せない人々は、「留保された平和」を生きるしかない。その中でもがけばもがくほど虚しく、言われる範囲に従って死なない程度の希望を与えられて、生きる。なんとなく平和な感じがする、というのは潜在的に戦争の種をはらんでいるのでした。ほんとうの平和、とは何なのでしょうか?ほんとうの戦争、ほんとうの未来、ほんとうの日本人。言葉を巡って暗黙の、ときに激しい、闘争が起きているようです。僕達も知らずに巻き込まれているのだと思います。どこかに加担しているのです。

海軍壕公園にも行きました。母の生まれの地、小禄にありますが、祖父母たちはけして行きたがらなかったそうです。海軍兵たちが最後まで戦った拠点であり、すごい規模の防空壕です。第二次大戦の最大の陸上戦である沖縄戦。最後は負け戦とわかりながら、日本兵たちはこの壕を拠点にして、武器のないものは槍を作って戦いました。でも、最後は集団自決していきます。壕の中には手榴弾の跡が残っていました。


壁に残る手榴弾のあと

集団自決の痕跡です。中は死体の腐臭と排泄物の臭いが充満して大変な惨状だったそうです。地下ということもあり、まさに地獄です。空を夢見た人間たちが空を植民地化し、戦争は過剰になりました。その結果、人々は最後には地下に追いやられ、死んでいきます。過剰な未来の先にあるのは、地下での死なのかもしれません。
スペクタクルとは、「過剰さ」と言い換えてもいいかもしれません。生命の過剰さの両極に、地獄への門が開かれている、と思います。究極の夢と究極の破壊は裏表で繋がっているのかもしれないです。

万博は戦争と対置されることで、世界のほんとうのすがたをあらわにさせます。万博の誕生は産業革命と資本主義経済と期を同じくしています。また、近代芸術も同じ頃生まれました。さらに、大規模な世界戦争もこの時期に発生源がある。
ここに向き合うべき相手が集結しているようです。今、書き換えなければいけないのは、この時期以来の人類史なのだろうと思います。

批評すべきマクロな対象が随分クリアに見えてきました。これから、もっとミクロな、戦前戦後の日本の近代化と政治経済の裏側を調べてみたいと思っています。


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