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他愛のない一日だったとしても。

今いちばん日々のじぶんの気持ちの移り変わりや
出来事がわかるのはTwitterXかもしれない。

ほとんど140字で書いているので、なんともない
日々はタイムラインにさらさらと流れるように
消えていく。

TwitterXをはじめたのは去年の3月だった。

そして、日々の心の動きや日常のささいな
出来事をツイートしていることがわたしに
とって、アスリートのウォーミングアップの
ようなものになっていた。

この間、吉本ばななさんがほぼ日學校で
レクチャーされているお話を聞いていた。

「なんでもない一日を書いてみよう」
というテーマだった。

日記を書いておいたほうがいいかもしれない
と主題を決められたたきっかけのお話を
こちらでされていた。



ばななさんの事務所で使われていた1992年頃の
電話帳。

伝言事項がメモしてある連絡用のノートを開きながら
お話しをされていた。

その頃に名前が記されているいつもそばにいてくれて
いた方はある人は海外に住まわれたり、いろいろな
事情でいまは5人ぐらいぐらいしかいらっしゃらない
らしい。

その時仰っていたのは。

今現在人間関係や育児のことで悩んでいたと
しても結果的にほとんどいなくなっちゃう。

ほぼ日の學校、吉本ばななの文章講座より。

こうやって日々を送る中で誰もいなく
なっちゃうんだったら、書いておくことも
大事じゃないかと、吉本さんは思ったのだという。

ほとんど、いなくなっちゃう。

この言葉に立ち止まる。

それはリアルもそうだけど
仕事が変われば人間関係は変わるし、たとえば
引越してもそれは変わってしまう。

このお話を聞いた後でリアルを振り返りながら
自分のnoteを読み返していた。

この3年だけでも、noteを辞めたり交流も色々な
理由で疎遠になった方たちもたくさんいる。

窓の雨のしずくのように、流れてきた新しい雨粒が
先にいる雨のしずくにくっついて、またひとつに
なったものが、たちまち消えてゆく。

その雨粒の成り立ちは数年の時間を早送りでみている
みたいだ。

そうやって新陳代謝しながら人との出会いも
別れも運動を起こしているものなのかもしれない。

だからいま側にいる人は大切にしたい。

吉本さんは講座の中でも日記を書くということの
大切さを語る。

このまま10年後20年後にはきっとすべてが
変わっているのだから。

なんでもない一日を書いておくのもいいん
じゃないかという提案だった。

そして描くのは他愛もない一日でいいんだと。

他愛のないという言葉が吉本さんの声に乗り
聴こえて来たときその言葉が好きだと感じていた。

他愛のないというなんの力みも特別感もない
そういうポジションに惹かれるのかもしれない。

輪郭もあやふやで弾力もほどほどで、うっかり
すると忘れてしまうような一日。

でもこの他愛のない一日は日々を重ねて、その
横顔を変えてゆく。

なんともない取るに足らないはずの一日は
過ぎてみると、きっと違うものへと姿を
変えているはずだと吉本さんは穏やかに語られる。

その日の何かを描いたということは、そのことが
その日その時はわからなくても。

後から振り返った時。

あんな一日でも愛情をもってその日を感じて
いたという証の記録になるのではないかと。

なんだかお聞きしながら、じんとしていた。

わたしに愛した一日なんてあっただろうかと
思いながらも。

書きたいと思ったことこそがその証になるのかと。

そしてどうでもいい一日だから書いておきたいって
わたしはその時突然思った。

昔の日記をひも解いていると、どうでもいい
ような一言が、その日記の中でやけに
存在を放っていることがある。

そして弱ったわたしを支えていることもある。

やるせない日もあるし、うまく伝わらなくて
あきらめてしまう日もある。

そんな日々であっても、そこにあきらかに
自分はいる。

そこに自分がいたという記憶と記録。

移ろいゆく日々。

時間が移ろいゆくのか人の心が移ろって
いるのかわからないけれど。

そこにとどめて置きたい時間を描けたら。

日記を書くということは、その日の出来事や
人やものたちを愛していたという記録なの
だと思うと、そこに思いを注ぐのもいいのかも
しれないと思っていた。

吉本ばななさんの日記への思いが心に直に
触れてきた日としてここに記しておきたく
なっていた。







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