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118 厳しい指導 〈令和版〉

「先生、ウチの子は何してもええから、厳しいしたってください」

昔、よくこれを言われました。たぶん、言うことを聞かないなら少しくらい手を上げてもいいということでしょう。

やるならお家でやってください、と内心思っていました。子どもは育ってほしいように育ちません。育てたように育つのです。自明の理。

この時代の厳しい指導とは「ずっと言い続ける指導」

何かのスポーツでコーチが大きな声で叱っているのを目にします。厳しいって、ああいうのをイメージしますが、あれは簡単。瞬間的に感情を爆発させたらいいし、何より受け取り手がある程度覚悟があります。プロフェッショナルを目指す以上、甘えやだらしないときは叱咤激励してほしいと、そういうコンセンサスの中でやっているので、外野がとやかく言える世界ではありません。

ずっと言い続ける指導。たとえば、何か注意したとします。同じことを同じように、言い続けることはできますか。言うほうがやがて折れてしまい、まあいいかとなるのが通常です。

そこを踏ん張って、言い続ける。これこそ、厳しい指導です。

しつこいのがいいと思いません。「またか」と思われてもいいけど、しつこすぎてもダメ。言い続けるには相手が受け取れるタイミングと事象があいまっていないといけません。そういうタイムリーが常にあるのかと疑問に思いますが、よく見ているから、ずっと一緒にいるからそういう場面にたえず出くわすのです。

「先生、ウチの子には厳しいやったってください」と言われたら「最近は手を上げたり大きな声を出したりというのがやりにくくなってきました。その代わりに、追いかけ回すので応援してください」と、今ならそう答えると思います。

指導の話になったとき、「強い指導はそれっきりにできるからいい」と、かつて聞いたことがあります。強い指導というのは時代遅れになった、例のやり方です。

瞬間で終われるから、後腐れなくていい。

違います。後腐れないのはやった側だけです。

そこの反省があって、今の時代はこういうふうになってきたと思います。厳しく指導するというものが時代とともに進化してきたのです。文明や文化もそう。成熟すればするほど暴力的な場面が減ってきます。それと同じことです。

近頃、Xを見ていると、指導が難しい子たちが多くいる学校を「底辺校」と自称し、「そんなところで働いたことがないから、そんな悠長なことが言えるんや」というマウントをよく目にします。「だったらあなたは点数、進学先、国公立とかいう数字にガンジガラメになる学校を経験してことがあるのか」と、またマウントができてしまい、マウント合戦が終わらないお粗末な場面を想像します。

「ここは落ち着いてるからこんな授業できるねん。ウチなら無理や」とうそぶくような人は、きっとどこに行っても無理。現状を変える気がない人は方法を見直しません。方法は〈イズム〉そのものだからです。

厳しい指導=力に頼る指導と、直情径行な図式で物事を捉える人ではないでしょうか。生徒と関わる以上、使う体力の総量は変わりません。使うポイントが違うだけです。

元気な子がたくさんいる学校で、声が小さくても、身体が大きくなくても、年齢が若くなくても、生徒が「この人にはかなわない」というすごい先生が必ずいます。オーラ、目に見えないパワー。その実は、オーラでもなく目に見えないパワーでもなく、たゆまず声をかけ続け、自分の信条をやりきっているからと想像します。

厳しい指導とは、自分を律する人のみができる、とても辛くて険しいものだと僕は感じています。「こんな自分が言える立場にないよな」と怯むような、軟弱な気持ちでは生徒に厳しい指導はできません。

言い続ける指導。僕もよくへこたれて、続けることが難しいと感じるときがあります。声色や言い方とか誰でもできるテクニックに走るではなく、一過性ではない言い続けるしんどい指導こそが、令和版の厳しい指導ではないでしょうか。

スギモト