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119 「認められたい」のに「見てほしくない」

承認欲求と埋没欲求

冬休みの課題で「新書を読む」を課しています。感想を読むと、違う本を選んだはずなのに「なるべく目立たないように」「目立ったらいじめられる」「みんなと同じでないと不安」という言葉を目にします。生徒たちがいかにそういう縛りの中で学校生活を営んでいるかを痛感します。しんどいでしょうね。

一方で、今の子たちは「他者から認められたい」という気持ちが一層強くなっているように思います。

ひと昔前は一芸に秀でた芸能関係者や、類まれな実力のあるスポーツ選手が有名になれる対象でした。でも今は、すぐ隣にいるような人が一躍有名人になれる時代です。僕も時折感じるのですが、通勤電車でいつも見るこの人が実はX(旧Twitter)のフォロワー何万人とかだったらおもしろいなとか、そんなことを普通に考えてしまう時代です。

そんな中で今の子たちは「他者から認められたいけど、目立ちたくない。なるべく非難されない形で評価されたい」というなんとも〈ワガママ〉な承認欲求をもっているように見えます。また、ここでいう〈承認欲求〉は同時に〈埋没欲求〉を伴っているとも感じるのです。

埋もれたまま目立ちたい。目立ちたいけど、埋もれていたい。二律背反のなかで、子どもたちは何食わぬ顔をして日常を過ごしています。

誰もが目立てる時代

誰でも有名人になれる時代になったがゆえに、何もない自分がしんどい。でも、大っぴらに目立つコンテンツがあるわけでもない。なら、あわよくば匿名で有名になって、その世界で活躍したい。活躍できたらそこで顔を出してもいい。そんなふうに感じているのではないでしょうか。

だいたい、なぜ目立ちたくないのか。目立たないと注目されないのに。目立つ何かを持たないのに、そんな都合のいい話があるはずありません。

学校で目立つこと、社会で目立つこと

学校は良くも悪くも、何でも受容します。良くも悪くも。ただ、これが〈正しく目立つ〉機会を奪っているように思うのです。

学校は「どういう人でも、そのままでいい。」と言います。果たしてそうでしょうか。他者があっての評価。評価されなくていいという人は、極論無人島で暮せばいいとさえ思います。

残念ながら、人からどう見られるかを避けて、生きるのはほぼ不可能です。ごちゃごちゃ言わず、自分のそのまま、ナリでいって勝負したらいいのに、それができないから、それが怖いから「評価されなくてもいい」と逃げるのです。

みんなと同じでないと目立つし、目をつけられる。この恐怖に多くの子たちはさいなまれています。

みんなと同じならば、たとえそれが間違っていても安心できる。正しいより、ゆがんだ安心を選んでしまうのです。

みんなと違うことをして評価されるためにはどうすればいいか。そのためには、その子自体をそのまま受け容れてやれる誰かがいればいいと僕は思います。

その誰かがいれば、その子は【個】として勝負できる。後ろでちょっと支えになるくらいの感じで。このちょっとの支えが、大きく前に出ようとするものの支えになるのです。

奇を衒って評価されてもいいのですが、おそらくそれは長続きしません。子どもたちがたえず怯えている「目立ちたくない。でも誰かに見ていていほしい。そして多くの人から評価されたい」という矛盾する気持ちを、いかに大人が察知して、支えに回れるかです。支えじゃなくてもいい。それが是正であってもいいと思います。

要するに、なるべく小さな指針で大人が適切にその子たちの前に存在できるかが、とても大切だと思います。

埋没欲求は、承認欲求の最上級の状態です。いいねん、目立たなくても。そういう人が他者から評価されたときの表情は、いつも称賛されている人のそれよりももっと破格なものです。

ブックエンドのような支え。できるだけ小さいほうがいい。見てほしくないのは自信がないからです。自信がないから埋もれたい。

でも、根源的にある「あなたのその姿、いいよね」と認められたい気持ちをきちんと持ち続けさせられるような、そんな声かけができる大人でありたい。

見てほしくないのは、実は見てほしいからだと、僕は思います。

スギモト