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116 勤勉さの凶暴性(1)

北陸地方で起きた大地震で被災された方が心配でなりません。一日も早く平穏が戻ってくるよう祈念しております。

称賛される日本人の姿

この記事だったか忘れましたけど、僕の考えていることにフィットした記事がありました。

日本人は自分たちのすごさに気づいていない。清潔、秩序、勤勉さと、外国から驚かれることが多いということです。オーストラリアから帰ってから、日本はどうしたら他の国に負けないか(というより、もっと正当に評価されるか)をよく考えます。たまにこういうのを見ると「おっ」となります。

物価が高かったオーストラリアの何もかもを経験し、それより上質なものが安価で日本では提供されている。そして、それらをより高い質に向上させようとしている姿に、僕自身、心を動かされました。

能登半島地震の報道のなかで


ご存知の通り、2024年の元日に石川県を震源とした大きな地震がありました。報道を見ていると、気象庁の記者会見で記者の質問がいかに攻撃的で、無意味なものが多いかと嘆くものがありました。X(旧ツイッター)ではそれを攻撃する向きも散見しました。

気象庁の発表の中で、元日深夜に一時「震度7」を報じるものがありました。

しかし、それは結果的に誤報でした。それを受けてある記者がなかば〈糾弾〉し、気象庁が陳謝する場面があったとのこと。

必要以上に謝る必要がどこにあるのでしょうか。僕には理解しかねます。混乱があって、それが誤りで、それを改めたら終わるはず。「誰がこの責任をとるのか」「なぜそんなことが起こるのか」と、詰め寄る。致し方ないのに。

隠れた本性

我々は日常で、誰もが持ちうる本来的な隠れた暴力性を押し込めて生活しています。それを他の国から見たら異常に思われるほど、自分自身に統制をはかり、バランスを保って生活していると思います。ここでいう我々を日本人と置き換えても通じるかもしれません。あまり主語を大きくすると的外れになる恐れもありますが、当たらず遠からずでしょう。昔から日本に住む人たちはそうして暮らし、災害の折にも海外から驚かれることもしばしばありました。

そんな我慢ばかりのカタルシスのない日常で、ネットでスカッとするエピソードを見たり聞いたりして溜飲を下げることがあります。そして起きたこの大災害。ここで一気呵成に日本人特有の真面目さや勤勉さが暴走し、「これは正しくない」と見える現象には想像以上の強さで攻撃を始めるように思えるのです。

勤勉さが暴力的になる瞬間

僕は学校で働いているので、よく似た場面に出くわすことがあります。普段おとなしいクラスや生徒が、「この人なら大丈夫」と思ったときにびっくりするほど大きな力で責め立てようとするのです。相手が頼りない先生なら顕著です。もちろん、声が大きい先生や、普段ちゃんと関わってくれる先生にはいつもどおり慎ましくしている。本当なら暴れ出したい感情を押し込めすぎているせいで、出せるところには完膚なきまでにその凶暴性を発揮してしまうのです。

代弁者としてのマスコミの限界

多くの報道をつかさどるマスコミは我々の知見を先取りし、見聞を広げてくれるものです。そして、場合によっては良き代弁者となり、そう思う人々はその感を強めていきます。ただ、それが筋違いなものであれば滑稽でしかありません。

ここで日本人特有の勤勉さが発動し、攻撃対象を見つけたときに驚くほど畳み掛けようとしていくので、始末が悪い。

気象庁が短時間で会見用のスライドを作り、持てる情報と技術を駆使して我々に有益な情報を提供してくれました。そこでもそれを享受する側は、際限なく正しさと速さを求めます。そこでのあの誤報は、我々を惑わせるものでした。ただ、混沌としている状況でこういうことも考えられると、他方では理解できます。

遠いところで「なぜ」が追求されすぎて、見てられないやりとりを見せられることになります。

マスコミは庶民の代弁者、カタルシスの担い手になることもありますが、昨今はかえってストレスを増長させる装置に感じます。羽田空港での大きな事故もしかり。記者の追求は悪を懲らしめる使者かのように、我々の誤った代弁者として機能し続けています。暗くなりますね。

ともあれ、外国から称賛される勤勉さがおおらかさ、鷹揚さになっていくにはマインドセットを見直さないと。どんどんクソ真面目になって、ちょっとした誤りを許せない人になってしまう。今回、大災害の報道を見ながら、ここから新たに傷つく人がいないことを切に願うばかりです。

スギモト