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転職後、このジェットコースターの日々

 時として自分の決断が正しかったのかと自問することがある。私にとっての大きな決断は十七年前の転職だ。

 外資系のIT企業から日本の企業へ出向して、そろそろ二年の任期が迫っていた時のこと。ありがたいことに出向先の皆さんから是非こちらの会社へ転籍してくださいとお誘いを受けた。

 出向先の会社ではサービス企画を担当した。自分で新サービスを考案し、社内の承認を得て、それが販売メニューのラインナップに並ぶのだ。

 売れたサービス、売れなかったサービスいろいろあったが、ものを作る喜びは私にとって新鮮だった。営業と共に顧客へ自分がこの世に生み出したサービスを提案しに行く毎日が、楽しくて仕方がなかった。

 出向までの十六年間は外資系企業で営業ひと筋だった。技術者ではないので本当はよくわかっていないコンピュータのハードとソフトを顧客に売りまくった。

 自分が売った物の筐体こそ導入時に目にしたが、それが顧客にどのように使われているか、役に立っているかはわからずじまいだった。コンピュータは箱だけでは動かない。アプリケーションを開発しないと使い物にならないが、その詳細にまで営業が関与することはなかった。

 給与の大部分はコミッションという歩合給が占めた。たくさん売れた時は多額の収入を得たが、売れなかった時は固定給の事務職より低賃金となった。そうなると座して死を待つ者はいないので、締めとなる四半期に一度は組織ぐるみで押し込み販売とも言える無理な売り方をした。

 今ではコンプライアンス上許されないだろうが、当時はコンプライアンスという言葉すら私たちのまわりになかったのである。無理な売り方とは相手が今すぐ必要ない物を売るということなので、当然ながら顧客や代理店が動かないコンピュータを抱えることになってしまう。

 私たち営業はそのフォローに次の数ヶ月追われた。そしてまた締めの月を迎え、新たな押し込み販売を行って、そのフォローの繰り返しである。

 ストレスが溜まらないわけはなく、それを解消するために意味もなく散財した。結果的に歩合給で得た収入はあまり手元に残らなかった。

 出向後は固定給となり、歩合給の頃より収入は減ったが、ストレス解消のための無駄遣いをしなくなったので、逆に貯金が増えた。

 何より仕事が面白かった。自分が創造したサービスを実際に顧客が利用し、喜んでいただいているだ。それを自分の目で見るのは無上の喜びだった。

 さらに出向先社員の人間性が素晴らしかった。元の外資系企業のような殺伐とした空気はなく、おだやかで温かい人柄の方ばかりだったのだ。

 このような状況だったので、出向先からの転籍のお誘いに対して即決でお受けしたいところだった。だが、ひとつだけ躊躇する点があった。

 収入である。外資系で歩合給の会社から日本の固定給である一般企業へ転職すると、普通に考えてそれなりの減収が予想された。私はその額を二~三割減と見積った。これは痛い。

 そして考え抜いた末、転籍の話をお受けすることにした。三割給料が減ったとしても家賃は払えるし、どうにか食べていける。出向後の人間らしく充実した生活を体験した後となっては、あの殺伐としてストレスまみれの毎日に戻ることは不可能だった。金より人としてまともな生活を選ぶことにしたのだ。

 私は覚悟を決めて転籍後の条件を相談する人事との面談に臨んだ。いくら給料が減るのだ、さあ来いという気持ちで。

 人事担当者は申し訳なさそうにうちはこれだけしか出せない、と給料を書いた紙を私の前に置いた。

 その金額をひと目見て私は驚愕した。元の外資系企業より三割以上高かったのである。えっ、みんなこんなにもらっているの?と目を疑った。外資系企業で押し込み販売を行っていた毎日は何だったのか。こちらでは固定給で普通に高額の収入を得られているではないか。

 もちろん断る理由などないので、その場で転籍の書類にサインした。こうして私は高額の収入と人間らしい生活を手に入れたのである。

 ところが、めでたしめでたしと話はここで終わらない。人生は先へと続いていくのである。そこから私はジェットコースターのような激しい上り下りの十七年間を体験することになった。良かった出来事、悪かった出来事を時系列に沿って列挙してみよう。

(悪)転籍の年に転籍先の会社が買収され、新しく就任したコンサルタント出身の社長が人事制度をまさにガラガラポンでゼロから作り直してしまった。私は転籍時の職位を下のレベルに落とされた。当然、給与は下がることになった。

(良)これまでの主任から課長に昇進した。

(悪)人事異動でサービス開発から営業に配置転換されてしまった。しかも管理職ではなく一営業としてである。この段階で転籍に伴う給与と仕事内容という二つのメリットが消されてしまった。

(良)営業としての成果が認められたのか、営業課長に昇進した。自ら大型顧客を何件も獲得し、高評価を得た。

(悪)複数の部下が深刻な不祥事を起こし、その後始末に忙殺された。

(良)営業推進部課長に転属し、新入社員四十七人の育成を半年近く担当した。自分の職歴ではもっとも誇りとする業績だ。

(悪)新人を育て上げ最高の成果を収めたはずなのに三百六十度評価(上司・同僚・部下による総合評価)で嫉妬からか、同僚による誹謗・讒言が集中し、マイナス評価で職位を下げられてしまった。また給与が減った。

(良)会社の給与制度が変更になり、気がついたら職位を下げられる前の金額の給与を手にしていた。

(悪)トラブル相次ぐ大規模プロジェクトに異動させられた。当初は会議室に閉じ込められて朝から晩まで顧客に電話をかけ続けるなどの過酷な業務をやらされた。

(良)グループリーダーを担当し、数十名のメンバーを統括する立場となった。プロジェクトの後半は業務にも慣れ快適に働いた。

(悪)プロジェクト終了後、大型金融機関の工事管理を手配する部署へ異動した。残業とストレスで心身に負担をかけながら頑張った。しかし、上長から物理的に実現不可能な目標を達成できなかったと難癖をつけられ、賞与の査定を下げられた。

(良)抗議の意味を込めて三ヶ月ほど休職した。この期間に心身のリフレッシュができたし、人事から所属部署へ私の配置転換が推奨され、過酷な環境の部署から出られることになった。この休職がなかったら、部署異動は難しかっただろう。

(悪)新しい部署はまた営業で、新規顧客開拓のため電話やメールでアプローチする役割だった。当然ながら、厳しい業務が予想された。かつ販売する製品・サービスは私にほとんど馴染みのないものであり、一から勉強する必要があった。

(良)腹をくくって営業をやるかと準備していたところ、着任前に上長からこれまでに経験・知識がある分野での営業支援をやって欲しいと要請された。今のところ、チームリーダーとしてやりがいのある仕事をまかされている。前の職場のように馬鹿みたいな残業などない。

 ざっと、こんな具合である。まさに「禍福は糾える縄の如し」だ。

 給与という観点で見ると、現在の金額は転籍時の金額より下だが、前の会社でもらっていたよりは上だ。仕事の内容は書いた通りで部署を転々と変えており、転籍時のそれとはほど遠い内容となってしまっている。しかし、最後に書いた仕事、つまり現在の職務は十分に私の経験と知識を発揮できるものだ。

 (悪)と書いた時期には正直なところ、なぜこんな会社に転職してしまったのだ?と自分の決断を恨む気持ちになったことが何度もあった。

 だが、それでも腐らずに自分にできることを真面目にこつこつとやっていけば、状況が好転することがある。そのことは過去を振り返ると間違いなく言える。ただし、あくまでも「ことがある」だ。先のことは誰にもわからない。

 私は収入より仕事内容や人間関係を優先した自分を誇りに思いたいし、その後幾たびも遭遇した苦難に負けず立ち向かってきた自分を褒めてやりたい。

 この先、どんな人生が待っていようが、私はこのように考えている。

 あの時の自分はそう決断するしかなかった。決断に伴って起きた出来事はすべて受け入れてきたし、これからもそうしていくのだと。

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