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カミングアウトじゃなくて長い長い自己紹介の一部

絶対的な存在、信じられますか?
例えば、神とか

じゃあ
誰かとの永遠の愛、誓えれますか?

たぶんイエスと答えるのに後者は多数で、前者は少数

だけど私はどっちも同じ質問じゃないか、と思う

(2023.01.28追記有り)

◼︎性

最近anoneで診断をした。

私の身体は女性。心でもそう思ってるから性自認も女性。シスジェンダー。

好きになる人、誰でもあり得る。パンロマンティック。
まあけど まだ人生で1人の異性しか好きになったことがないんだけど。

デミロマ。(クワロマ)

そのことはデミロマンティックの典型だった。

私の中で誰を好きになるかという指向よりも、どう好きになるかどんな風に好きになるかが重要な指向だ。それで今のところ、この属性が一番腑に落ちてる(完全にじゃないけど)

私は恋愛感情と友情の違いが分かりにくいというか、ほぼない。(追記2023.01.28→クワロマンティック!!!!私の自認これだ!!!!)
基本的に恋愛感情と友情の区別がなくて(これはAロマンティックという。でも勘違いして欲しくないのは愛はある、そこに恋愛か友情かとかの区別がないってだけ)。滅多なことがない限り、恋愛感情は湧かない。これがデミロマンティックの特徴らしい。

その「滅多なこと」の指標や起こるタイミングはデミロマの中でもそれぞれなのだけど

私の指標は「どきッとする何かがある」ことだ。

それを感じるおかげで、相手をどうしようもなく特別に扱いたくなってしまうことがある。
ある友人はそれって性欲を持つか持たないかじゃない、と言ったけれど私には違った。たしかに性欲ではない、何かどきッとするものであって、それもルックスがすごい好みだとかじゃない、ほんとうに「なにか」が私をそうさせるのだった。
これは古く深い間柄だった人から感じることもあるし、話したことはほぼないのにその人に関する話を聞いたり、行動を見ているだけで感じるようになることもある。タイミングは無関係で、とにかくどれだけ相手が大好きでもこの「どきッ」が無いと恋愛感情とは思えない

きっとこの恋愛感情っていうのは誰かを独占したくなる感情のことなんじゃないかと思う、し、分かる。

Aロマ?リスロマ?

だけど私に内在している正義は「愛は手放すもの」だ。
愛と執着は似ても似つかぬもので、独占すべきものではない。

だから自分の恋愛感情に気づいたところでなにもすることがない。
普通はカップルという形になるため好意を抱いてもらおうと行動したり、告白ということをするのが一般的だ。
そうならないのは「付き合う」意味が分からないからだ。付き合うにもいろんな形があるのだろうけど、大体は好き同士という証明と誓いの下、他の人と愛を交わさないルールが課されたり同棲したり予定を優先したりするのが「付き合う」の意味なんだろう。しかし私にはそれが束縛という印象ばかり強く感じてしまう。
私は友人Aちゃんとだけ仲良くすることはできない。BちゃんともCちゃんともDちゃんともEちゃんとも仲良くしたい。そこに多少なりとも親しさの差があっても、どの相手も大切にしたいと思う。親友をAちゃんだけに限定することはできない。だから浮気がどうしてそんなにダメなのかわからない、というよりは だったら初めから限定する愛を約束しなければよいのに、と思ってしまう。

結局デミロマ気味のクエスチョニングかも クワロマンティック

それでも特別に誰かを愛することはやめられない。相手に求めることもなくて、ただ、ひたすらに、相手に恋人ができたとしても思い続けてしまう。
これは一般的にみれば未練タラタラの女である。だけど私はそれでいいのだ。

じゃあその特別な人に愛を告白されて、お付き合いを申し込まれたら?
嬉しい!
だけどやはり私は「付き合う」意味が分からない。そしてこの考えは少数派であることは知っている。相手が理解しがたいと言って離れて言ってしまうのも想像に苦でない。それはちゃんと悲しくて苦しい。付き合いたくないくせに、失恋はするばっかりになる

私はただみんなを愛したくて、自立もして、自由でいたいだけ。

永遠のものなどないのだ。
そもそも愛は関係を繋ぎ止めている理由・物事ではなく、感情なはずでは?
セクシュアリティが流動的であるように、人の心も変わる。時代も変わるし、社会も、人も変わる。自然の摂理っていうのはこういうことで、それと同じ態度をとってるだけ、のつもりなのだけど。

(たまにすごく面倒臭く感じて「総じてクエスチョニングなのはたしかだな〜」とか思考を止めちゃうけど、それって万人に共通するよな、性はグラデーションで流動的なんなら、)(再追記2023.01.28→クワロマンティック!!)

【蛇足】神は存在可能?

ここで冒頭の話に戻すけど、

絶対的な存在、いてくれたら最高に決まっている。

いつでも愛してくれる人、肯定してくれる、味方になってくれる人。楽だし安心だし安定なはず。まさに神さま。

だけどそれって非可能だ。
成立したとしたらどちらか片方が無理している、あるいは共依存関係にあって社会から孤立しているはずだ。特定のどこかに属すのではなく、さまざまなコミュニティに属し皆で支え合って生きていくべきだし、そうであってほしい。

◼︎性は肩書きのひとつ

(デミロマ)クワロマよりも

長くなったけど、つまり、
たぶん私は性的マイノリティのひとりだ。
だけどその肩書きを、レッテルを、強調したいとは思わない。

自分の「愛」観に困ってはいたけれど、それにクワロマンティックという存在を認識できて、言語化できて、属する場所を見つけられたからだ。お陰で自分で自分の存在をはっきり見ることができた。もう困っていることはないから主張する必要性を感じないだけ。
もしゲイやバイセクシュアルで「もっと恋愛したいのに」「堂々と付き合いたいのに」そんな悩みがあったらきっとそのレッテルを大きく掲げたくなると思う。周りに理解された方がより行動しやすいから。
私は、自分の中の悩みは解消されて、これ以上何をしたいと言うことはない。今後誰かに求められない限りカミングアウトすることもないつもりだ。「息づらさ」は解消されたから。

肩書きに上下はなしであってほしい

今一番に貼りたいレッテルは「表現者」だ。
踊りによる自己表現が好きで、こうして言葉の自己表現として綴るのも好きだから。

他に貼れるとしたら、「好奇心」とか「頑固」とか「カラフル好き」のレッテルを次に貼りたいかなー

遠くない昔、言われたことがあります。

『OHさんなんで恋愛しないんですか』
『椀さんは、恋愛しない人なんだよ~』

疑問に思われたり、勝手に決めつけられたり

特に傷ついたことも無かった。だって自分でも自分のことよく分かってないんだから笑

けど
私たちは愛を求めすぎでは?
愛を求めることを否定してるんじゃなくて。
凄くよくわかるから。私も母から愛されたいと思ったから。認められたいと思ったから。普遍的な欲求だ。

人はいろんなレッテルを持つ。
『愛』だけじゃない。たとえ自分が重視する肩書きが『愛』だとしても、他人を同じものさしで見てはいけない。
当事者が貼ったレッテルを読むべきだ。

他人から勝手に貼られるのは確かにもっての外。逆に、自分で貼るのは自由。レッテルは文字。文字があることは存在するということ。存在が認められるのは心地が良いことだ。好きなレッテルを貼り付けたらいいし、それで周りは貼ってあるレッテルを読むべきでしょう?よく知らないのにレッテルを誰かに貼るのは妨害行為だ

特に勝手に貼られるときは『愛』『金』『成功』のジャンルが多い
「恋人がいるかいないか」「お金持ちかそうでないか」「何か成功を収めているかそうでないか」
私の場合『愛』だったら「彼氏いない歴=年齢」「クワロマンティック」のレッテルを持ってるけど、目のつくところに貼るつもりはない。別に見て欲しいとは思わないから。

けっして恋人がいたり、結婚している人たちを否定してるんじゃない。
そういう人たちも素晴らしいと思うし、寧ろ誰かに向き合い続けるって本当に尊敬できることだ。
だけど愛に比重を置きすぎている社会、世論には私のような「そうじゃ無い人」をもっと「そうじゃ無い人」以外の面で見て!!と肩をたたきたくなる。

レッテルは自分の在り方を表明できる、自分に与えられた自由なものだ。そうであるべきだ。

◼︎ai?

なんかここまで意図せずぶっ通しに愛について語ってしまった
一つ自分の忘備録として書いておきたいことは

愛とはあったかくて
私たちを複雑にさせる、悩ましいけど憎めない
そんな感じのもの

だよねという笑

hyukoh(ヒョゴ)のLOVE YA!が大好きだ
Aメロの最初は2回とも“Don't be afraid, ”。

もう一つ分かっているのは、愛は恐れたり心配するものでもないということ。

他人を愛そうとすることを恐れないでいたいし、自分を愛そうとすることも、人以外を愛することも恐れないでいたい。

たぶんこれから先いろいろ口出してくる外野も出てくるだろうけど、彼らは責任を取ってなんかくれないの、
責任も権利も自分にしかないのだから、毎日自分らしく面白がって生きたいなー


という気づき日記なんだか、長い自己紹介の一部(セクシュアリティ)なんだか、なんだかよくわからない3628字。

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