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「クミちゃんが仕事いっしょうけんめいやってくれてるのはおれもさ、分かってるんだけど。あと周りの人たちもさ……」
「はい」
「その、なんていうのかな……ちょっと苦情、というか──」
 久美子は徐に自身の右の拳を胸のあたりに掲げる。拳には使い込まれ黒光りするメリケンサックが嵌められている。テーブルを挟んで向かいに座る田口の顔が痙攣したようにひきつる。
「や! ほんとに、苦情じゃなくて、お願いというか、こうしたほうがもっと良くなるんじゃないかな、っていうくらいでさ、だから、そんな、ほんと、違うんだ、うん」
 田口の言葉に、久美子は一瞬間を置いてから掲げた拳をゆっくりと膝の上に戻す。田口があからさまにふぅーっと安堵のため息をつき、尻をずり下ろすようにして椅子の前方へ動かす。
「……先週の火曜なんだけどね」
「はい」
「その、クミちゃん、自分の席でナイフ、ブンブン振ってたでしょ?」
「ダガー?」
「だ、だがー?」
「ダガー」
「あ、うん……ダガー。ダガーをね、振ってたでしょ?」
「ダガーを」
「あれでね、隣の高橋君の肩、切っちゃったじゃない?」
「あー」
「あー?」
「ちょっと先っぽが」
「ちょっと?」
 久美子がやや不満げに、ぷくっと頬を膨らませる。薄い化粧を纏った肌理の細かい肌の下、そこがほんのりと薄桃色に染まるや否や、ぷっ! と口の中の仕込み針が高速で射出される。針は田口の顔のすぐ横を通り抜けその背後の壁に深々と突き刺さる。田口の左の頬骨のすぐ下あたりにスッと紅い線が奔り、たらりと血が流れ出る。田口が何か言おうと口をパクパクさせるので、久美子が「酸欠ですか?」と問う。田口は「いや……」と掠れた声で呟いてから、
「……そうだね、ちょっとだね。先っぽが、ちょっと」
「高橋君、いきなり立ち上がるから……」と久美子が口を尖らせる。
「そうだよね、高橋も悪いんだけど……」
「高橋も?」
 テーブルの下で久美子が何やら手を動かすと、か゜ごッ、と鋭利でいてそして重みのある、聞いたことのないような奇妙な金属音がミーティングルームに響く。
「高橋が悪いですね」唇の蒼くなった田口がぽつりと呟いてから、
「それでね、あのー、どうして、クミちゃんはナイフを」
「ダガー」
「ダガーを、振ってたのかなって、うん」
 久美子の頬がやや紅潮し、ためらいがちに、
「実は……その日はちょっと寝不足で……」
「……なんか、あったの?」
「県大会が近くて」
「県大会? ええと、スポーツか何かかな?」
「チャクラムの」
「チャクラム?」
「はい。それで、夜遅くまで練習してて」
「チャクラムの練習を夜遅くに?」
「そしたら、昼間にウトウトしてきてしまって、これはいけないと思いまして、その、寝不足の時に振るう用のダガー」
「寝不足の時に振るう用のダガー?」
「寝不足なんダガーを」
「寝不足なんダガーを?」
 久美子は静かに頷く。田口はもの言いたげな目つきで久美子を見て、口元に手を添える。空調の音がやたらと大きくミーティングルームに響く。
 田口は思い詰めた顔をし、やがて覚悟を決めたように、
「そのね、出来ればでいいんだけど、ええと、ダガーを振るうのは、なるべくオフィスでやるのは避けてほしいかなって……」
 異国の言葉を聞いているような顔をした久美子が首を傾げる。
「いや、だからね、やっぱり刃物な訳じゃない? 高橋も迂闊にクミちゃんの間合いに入ったのがいけないんだけどさ、でもやっぱりオフィスには色々な人がいて働いている訳で──」
 久美子が突然立ち上がる。田口はびくりとして言葉に詰まる。久美子はそのままミーティングルームを後にする。残された田口は腰が抜けたようになり椅子に座ったまま身じろぎ一つできないでいる。
 暫くして再びミーティングルームの扉が開く。久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担いだ久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担ぎ右拳にメリケンサックをつけた久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担ぎ右拳にメリケンサックを両肩と両膝にトゲのついたパッドをつけた久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担ぎ右拳にメリケンサックを両肩と両膝にトゲのついたパッドをつけ腰にチャクラム四、五枚を携えた久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担ぎ右拳にメリケンサックを両肩と両膝にトゲのついたパッドをつけ腰にチャクラム四、五枚を携え口腔内に遅効性の神経毒が塗り込まれた仕込み針二本を隠し持つ久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担ぎ右拳にメリケンサックを両肩と両膝にトゲのついたパッドをつけ腰にチャクラム四、五枚を携え、口腔内に遅効性の神経毒が塗り込まれた仕込み針を隠し持ち右手に寝不足なんダガーを左手にやってられないんダガーを握りしめる久美子だ。背中に身の丈ほどある長剣を担ぎ右拳にメリケンサックを両肩と両膝にトゲのついたパッドをつけ腰にチャクラム四、五枚を携え、口腔内に遅効性の神経毒が塗り込まれた仕込み針を隠し持ち右手に寝不足なんダガーを左手にやってられないんダガーを握りあまつさえ懐にコブラが一丁隠された久美子だ。
 久美子は入口を塞ぐように仁王立ちしダガーを持った両手を大きく広げる。椅子に座りつぶれたヒキガエルのように手足を伸ばし痙攣し怯え全身の穴という穴から恐怖を垂れ流す田口を鋼鉄のような二つの目で見下ろす。
 すると久美子は両手を下ろし、左右の手に握られたダガーを交互に見て暫しまごつき、一旦左手で二本のダガーを束ねるようにして持ってから、まず寝不足なんダガーを逆手に持ち直してテーブルに突き立てる。田口がひっ、ひっ、と奇妙なしゃっくりをする。久美子は残ったやってられないんダガーを左手のみで器用に逆手に持ち替え、こちらも同様テーブルに突き立てる。そして久美子は背中の長剣を引き抜き上段に構え、「やってられない時に振るうダガー、やってられないんダガー」と呟く。
 ヒキガエルのような田口が喉を振り絞るように、「やってられないんダガーはこっちの……」とテーブルに突き立てられたほうのダガーを指さす。
 久美子はハッとし、テーブルに突き立てたダガー、やってられないんダガーと上段に構えた長剣を交互に見、一旦長剣を下ろし、おろおろ困ったような顔をして田口を見る。田口は黙ったまま久美子を見る。互いに見つめ合い、静止。空調の音がやたらと大きくミーティングルームに響く。
 やがて久美子の眉にぐっとした決意が宿る。久美子は再び長剣を上段に構え、「やってられない時に振るうダガー、やってられないんダガー・ツー」と呟く。
 少し間をおいて、田口が「それはダガーではなく、ロングソードでは……?」と震える声で久美子に問う。
 刹那、久美子が
「斬鉄──」
 と呟くや、コッという呼気と共に上段に構えたやってられないんダガー・ツーを振り下ろす。やってられないんダガー・ツーの切っ先が床に触れる。久美子と田口を隔てる木製のテーブルが両断される。ひーっ、ひーっ、ふーっ。椅子に座り身体を最大限仰け反らせ口からぶくぶくと泡を吹いている田口が、か細い呼吸をする。
「あの、田口課長」
「な、なん、なに……?」
 久美子はやってられないんダガー・ツーを背中へ仕舞うと、
「本日、午後から有給を戴いてもよろしいでしょうか?」

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