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よそよそしい身体と生きる。雨乞いとしてのボディケア。

今週タイムラインに流れてきたkemio氏のツイートで「自分と身体とのリレーションシップ」という言葉を見て、私の身体の捉え方に「リレーションシップ」という言葉はとてもぴったりくるなと思った。

私にとって自分の身体は、とても自分であるとは思えない。よそよそしく、時に乱暴でわがままで、時に弾けるように笑い、時にとても優しくしてくれる、気まぐれな恋人のような存在だ。理不尽な恋人を愛しく思い、うまくやりたいと思いつつも、どうにも馬が合わない感覚がずっとあって、身体をぞんざいに扱ったり、身体からぞんざいに扱われたりしている。

月経痛はずっと重くて不順で、PMSに振り回される。小さい頃から運動が致命的にできない。自分の体型が好きじゃない。ストレスで摂食障害っぽくなった時期もあった。扁平足なので歩くとすぐ疲れて、ヒールも履けない。基本的には健康体でアレルギーもないし、だからそういう違和感の一つ一つは本当にありふれたことなのだが。

思えば10歳のとき、おっぱいがちょっとずつふくらんできた自分の体をお風呂で見て「なんかキモい!!!」と嫌悪したあの頃から、身体はよそよそしいままだ。「身体ちゃん、私のことそんなに好きじゃないのかな」と感じながら付き合っている。私は身体ちゃんのことけっこう大好きなんだけど…。この娘と付き合っている自分に自信が持てないというか。

(というか、身体を他者としたときの「私」とはなんのだろうか? 心身二元論的な、「精神としての自分」とはまた全然違う気がする。そしてその二元論でいうと「精神の自分」より「身体の自分」の方がよっぽど大きくて偉い。)

だからたまに、身体と自分がぴったり溶け合う瞬間があって、その時は「今日身体ちゃんとうまくしゃべれた!」という感じで嬉しくなる(でも翌日にはまた無視されるのだった)。


女が30歳付近から、マクロビやオーガニックにこだわったり、アロマを焚いたり、Aesopやジョンマスターオーガニックなどの、高価でいい香りのするボディケア用品を買ったり、ちょっとしたスピリチュアルにハマることが、歳をとるごとに理解できるようになっていく。女だからそういう感覚を持っている、というわけではないのだけど。私たちは身体の気を引きたいし、仲良くおしゃべりがしたい。

ボディケアは雨乞いに似ている。それは雨を降らせるためのソリューションとは限らない。効果があるからやるのでもないし、癒されるからでもない。

雨乞いは、「人が世界に働きかけることによって、それに応じた反応(雨)を返してくれる」ことを確認するための儀式なのだ、とする考え方がある(だから雨乞いは雨期が近づいたころに行われる)。
我々と自然が良好なリレーションシップを築いており、我々の振る舞いに対して反応を返してくれる。そのような、お互いがつながり呼応する世界観を確認することで、人間は安心して暮らしていくことができる。

自分が身体を大事に扱ったら、きっと身体も私を大事に扱ってくれる。
でも忙しいから、時間の代わりにお金をかけることで「大事にしている」感を身体に伝える(少しずつ増えていく収入と、衰えていく身体)。


Aesopは、身体という、もっとも身近で制御しづらい「自然」に対する祈りの祭具だ。

あるいは、アロマやサウナなんかは、自分と身体の「話題づくり」みたいなものなのかもしれない。二人でただ居ても沈黙しちゃうけど、映画とかテレビ見ながらならその話題を話していればいいみたいな。

そんなことが身体と本質的に和解するソリューションでないことはわかっている。そして無理なダイエットをして身体を意思でデザインすることもソリューションではない。ただまあ、とりあえず、とりあえずね。鎮まりたまえ。穏やかであれ。もっと話そう、あれだったら今度ご飯とか行く? そんな心情で日々身体と向き合っている。

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