見出し画像

個性的なものと匿名的なもの

去年の春に下北沢に引っ越しをし、家で過ごす時間が長くなって、少しずつ雑貨や生活用品を買い足した。古道具屋からおしゃれなセレクトショップまでそれなりに見て回ったけど、やっぱり匿名的なものが好きで、個人的なものからすっかり遠ざかっている。食器にしても作家ものや、新進気鋭のプロダクトブランドのものももちろん素敵だけど、古道具屋で1500円くらいで売られている昔のお茶碗が一番しっくりくる。

例えば『POPEYE』や『&Premium』で、作家もののカラトリーや、無水鍋や、ビンテージのソファなんかが部屋中にあって、一つ一つを「これはこういうコンセプトのブランドが、長野の工房で一つ一つ作ったもので…」なんてストーリーを語っている特集があるよね。ああいうページを見ていると、憧れるなーという気持ちと同時にどうにも気持ち悪い感じがしちゃうんですよね。わかる人いるかなこれ?いるよねえ。

その人のセンスが気持ち悪いとかでは決してなくて、むしろ好きなんだけど…。全てがブランドストーリーとこだわりで埋め尽くされた部屋ってなんか、空白がなくて窒息死しちゃいそうになるんですよね。世界観が固まり過ぎていて、自分が参与していく余地がないというか、もっと軽やかな「なんてことなさ」が心地いい。センスのない凡人の反発なのかもしれないけどさ。

ご飯屋さんにしても、私は店主のこだわりが詰まった変なコンセプトの居酒屋とか、スパイスカレーのおしゃれなお店とかが結構好きなんだけど、そういうのに疲れてしまうときもある。本当は隠れ家的創作イタリアンより、何十年も前から同じスタイルでやってますという、普通のメニューしかない町中華とか焼き鳥屋とかがいい。

ブランド服ではなくて古着が好きなのもそういうことかもしれない。人の手を渡るうちに、予めセッティングされたブランドイメージとは別の文脈が混じってきて、服から発される雰囲気が良い具合にごちゃっと濁る。

色落ちやヨレッと感も、あらかじめデザインされたものではなく、途中経過として今こんな感じです、と言うところがいい。自分もその服に参与する一人として、何かを構築していく余地があるというか…。
古着はともするとただだらしなく見えてしまうけど、それを他の服との掛け合わせで絶妙にかっこよく着るのは、なんだか「発酵」的な感じがする。服それ自体で自立しているんじゃなくて、着るひとの雰囲気や組み合わせによって、全体の「場」を作り出すような服の着方。

バチっと「これでしかない」と緻密に設計されたデザインもすごくいいけど、もっとあいまいで不安定な、美しさと野暮ったさの間で絶妙に足場を保っているような、顔を近づけると人の臭いや指紋やいろんな痕跡が見えるような、それでいて軽やかな…そんなものが好きだとつくづく思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?