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本当はヤバい朗読の世界 ー変身する文学ー


「朗読」というものにどんなイメージを持っていますか?


いや…朗読、ってまあ…教育テレビでたまに観る、薄暗い謎の空間でスポットライトに照らされたおばさんが、穏やかな表情で本を丁寧に読み上げてるあの感じ…? 雨にも負けず風にも負けずみたいな?

そもそも人生で朗読に何らかの感想を持ったことがない人も多いのかもしれない。本を音読する、っていうただそれだけだし。最近だとAudibleなどでオーディオブックを聴く人はいるだろうけど、「通勤中や作業中でも聴ける」という利便性で利用している人が大多数だろう。

でも朗読って、文学を声に出すって、よく考えたらすごいことなんじゃないかと私は信じつづけている。だって作品を認知する形式が、視覚情報から聴覚情報にすっかり変わってしまうということなのだから。朗読は、実はめちゃくちゃ過剰で多様で面白い。朗読とは文学のトランスフォームなのだ。


古川日出男、「聖家族」を読む



まずは私が朗読にハマるきっかけとなった映像をぜひ見てほしい。なんじゃこりゃあ、ってなるから。
2013年2月に、小説家の古川日出男が「聖家族」という自分の小説を朗読している映像である。まあまずこの小説自体がものすごいのだがそれはまた別の機会に話すとして…これヤバくないですか?

いわゆる聴きやすい朗読、とは全然違う。古川日出男の声のうねりにたちまち飲み込まれて、そのまま怒涛のように先へ先へと連れていかれる。声色や速さやリズムが次々変わる。身体全体から、言葉がほとばしる。ただの音読なんかじゃなくて、演劇のようでも、歌のようでもある。4:48~の突然ラップみたいになるところとかもう最高。古川日出男が話しているというより、彼の身体が凶暴な言葉たちにのっとられてしまったようなのだ。


宮澤賢治「永訣の朝」


続いてもう一つ、古川日出男が宮沢賢治の「永訣の朝」という詩を朗読したパフォーマンスを紹介する。

「永訣の朝」は、宮沢賢治の妹、とし子が24歳の若さでこの世を去る折の心情を綴った詩である。詩集「春と修羅」に収められている、連作詩「無声慟哭」の巻頭の一篇。 冒頭を青空文庫より引用しよう。


けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
     (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
     (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
     (あめゆじゆとてちてけんじや)


それからこれが、2014年3月11日、古川日出男・管啓次郎・小島ケイタニーラブによる、宮沢賢治「永訣の朝」の朗読パフォーマンスだ。


文字で読んだときと、この朗読。受ける印象が全然違う。


この詩はほぼひらがなで、ところどころに「陰惨」「蓴菜」「陶椀」といった画数の多い単語が散らばっていている。紙の本で全体を眺めると、その漢字の部分だけが黒く塗りつぶされたように見えて、どきっとする。

その黒い点々は、みぞれの降る静かな朝に、賢治の激しくどろどろした絶望が溢れ出て、まっしろなうつくしい雪に黒い痕をつけてしまったように、私には感じられる。まるで風景画のように。

この絵画のような詩が、朗読によって音楽へとトランスフォームするのだ。

言葉の一粒一粒が、文字で読む時とはまた違う新たな味わいをもって沁みこんでくる。目で読むよりももっとドラマティックで、感情が表に出ている感じ。二人の朗読とその背後にあるギターの音が、作品世界を立体的に構築しなおしている。


言葉が視覚情報から聴覚情報に、別のかたちへとトランスフォームすること、身体をとおして言葉が放たれること、むしろ言葉に身体がのっとられ、ドライブさせられること。朗読は、文学の新しい姿を見せてくれるのだ。


朗読の見つけ方

ただ、朗読すごいよ! と主張しても、なかなか良い朗読作品を見つけるのは難しい。よくある名作朗読みたいなのは聴きやすいだけでいまいち面白みにかけるし、どこで探せばよいかもわからないと思う。

というわけで、次回は私のおすすめの朗読(広義)を紹介します。おたのしみにしてくれる人はおたのしみに!


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※宮沢賢治『永訣の朝』…青空文庫より引用https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html#midashi1168

※古川日出男の朗読映像はいずれも公式HPより引用





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