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「食」という死ぬほど多元的な行為

近所に玄米おにぎりのお店がオープンしたので今日のお昼にテイクアウトしてみた。注文を受けてから一つ一つ丁寧に作るタイプのお店で、作っている間に店主のおじさんと世間話をした。注文口の横に、素朴なタッチのおにぎりキャラクターの絵が貼ってある。「おにぎりっこ」の「のんちゃん」というらしい。おにぎりに女の子っぽい顔が描いてあって、しめじのツノが生えている(なんでしめじ?)。

「これからのんちゃんが日本各地を旅していくっていう物語を考えてるんですよ〜。で、行った先々のご当地の食材を取り入れていろんなおにぎりになっていくみたいな」

すごいクレバーな売り方だなあ!とかじゃないけど、おじさんが楽しげだったのでやたらじーんとしてしまった。ただご当地おにぎりを作るんじゃなくて、フードメニューにストーリーをのせるのいいよね。おにぎりというシンプルな料理だからこそ他との組み合わせが活きてくるんだろうね。

そして、「人に作ってもらったおにぎりを食べる」ことが数年ぶりで、それ自体なんかすごいテンションが上がってしまった。おにぎりの持つ謎の尊さってあるよね。


そこからのつながりは特にないので、この話を冒頭に持ってくる必要性はないんだけど、

昆布おにぎりを食べながら、「食って死ぬほど多元的だな…」としみじみした。


多元的というか多義的というか。あらゆる要素を含んでいる概念なのではないか?

「食べること」は生きるために一番緊急度が高く、だから最も根源的な欲望だ。一方で最新スイーツをインスタにあげることはとても記号的で趣味的な行動でもある。

「美味しい」という感覚は本能的でもあり、文化的・経験的にも構築される。だから言葉が通じずとも「美味しい」で世界の人とつながることができる一方で、文化や個人の経験によって全く感覚が違うのだという異文化理解にもなる(グローバルとローカル)。

ありふれた日常活動であり、アートであり、クラフトであり、サイエンスでもある。

誰もが作り手であり、受け手でもある。

自分自身のためのセルフケア/自己との対話でもあり、身近な人のために振る舞う贈与的行為でもあり、大きな資本システムの中の経済行動でもある。

食べ物を育てる・収穫する・選ぶ・作る・買う・誰かに振る舞う・誰かと食べる…。その全てが他者との関係を意味づけ、構築し、そこから文化・文明が生まれる。まさに「食べることは生きること」なのだ。

私はおにぎりにやたら感動してしまったが、それは「おにぎり=あったかい愛」みたいな特別なイメージがあったからで、目の前で作ってもらったおにぎりを渡される時、「お店を開店するまでのおじさんのいろんな試行錯誤」や、「"のり子さん"というおじさんのお友達がのんちゃんの絵を描いている時間」までもが一緒に渡されたような感覚になったのだった。

そうやって、食はあらゆるイメージや感情をのせて巡っていく。

具体的で抽象的。俗であり聖。美しくて、次の瞬間には汚い。他者の死によって生かされるという相反性。

食が関われない領域なんてないし、食は全てのものへの回路になっているんじゃないか?こんなに底知れない概念他にあるだろうか?すごない???当たり前なんだけど、ふと一人で圧倒されてしまった。

食というコンテンツが持つばかでかい魅力はこの多元性にあるんだな〜。だから私は食が好きなんだ。

以上です。もぐもぐ。


おまけ:食に関する好きな本

↑(性食考)個人的にものすごい面白いってわけではないけど、今日考えたことと繋がりそう

↑まだちゃんと読めてないけど…。 有名な「料理の三角形」に関してはこの論文面白そう(これから読む)
福田育弘「飲食にみる自然と文化の関係ーフランス料理の八角形と日本料理の四角形 ー」 (早稲田大学 教育・総合科学学術院 学術研究(人文科学・社会科学編)第68号 209 ~233ページ,2020 年 3 月)

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