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DisegnoデザインのMalinconia憂鬱

武蔵野美術大学大学院造形構想研究科クリエイティブリーダーシップコースクリエイティブリーダーシップ特論 九州大学芸術工学研究院の古賀徹さん

2020年6月22日(月)、九州大学芸術工学研究院の古賀徹先生に「インダストリアル以後のデザインとリーダーシップ」というテーマでお話を伺った。ただ個人的な所感は内容をまとめると、「哲学とデザイン」についてである。
古賀先生の専門は哲学である。以前読んだ『デザインに哲学は必要か』(2019年 武蔵野美術大学出版)という書籍の1章を古賀先生が担当しているので、デザインに対する古賀先生のお考えはある程度把握していた。(ちなみに古賀先生はこの本の編集も担当されている)

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哲学とデザイン

「哲学とデザイン」。個人的な話になるが、このテーマから、昨年度武蔵野美術大学の別の講義で聴く機会があったイタリア人デザイナーBetti Marenco(著書Deleuze and Designなど)氏の話を思い出した。
Marenco氏は元々哲学畑出身で、デザイン畑に軸足を移した人である。お話の後に「どうして哲学からデザインに専攻を変えたんですか?」と無邪気に(無知に)聞いたら、「哲学を実践するのがデザインだから」と「何を当たり前のこと聞いているの?」という口調で答えていただいた。

自分にとっては必ずしも自明ではなかったのだが、古賀先生のお話からも思ったのは、イタリアという国におけるデザインは「哲学、あるいは思想を形に落とす」ということを意味として含んでいるのではないか、ということだった。古賀先生が言及した概念は、全てイタリア語(もしくはラテン語)で提示された。重要なところを取り上げると、以下のような感じである。

Disegno ≒Invenzione:概念(concette)を、形(forma)に落とせるよう「構想」すること(ヴァザーリ Vasari, 1568 )

言葉を見ていただくと分かると思うが、イタリアではデザイン=Disegnoは発明Invenzioneとほぼ同義だった。何回か前のクリエイティブリーダーシップ特論で、デザイナーの川上元美さんのお話(→こちら)でも思ったが、イタリアのデザイナーには今ないものを形にする、すなわち「発明」するというマインドが備わっているのではないか。そしてそれは、そもそもイタリアにおける「デザインする」という行為には、「発明」という要素が含まれているからではないか。だから、イタリア語のDisegnoと、日本語のデザイン/設計は対応しているようで、その意味されるもの(ソシュールの記号学でいう「記号内容/シニフィエ」)は異なるのである。
発明するということは、今はまだ存在しない新しい思想に形を与え現出させる、ということなのではないだろうか。そしてそれは、日本のデザイナーもやるべきことだと思うのである。

ポストインダストリアル社会におけるデザイン

私はもともと哲学が好きなので、お話はとても面白かったが、不十分、あるいは不足だと感じた点があった。古賀さんのお話だと、ポストインダストリアル時代でデザインするという行為は、状況全体における「最適解」を見つけ出す、ということであったが、この説明で不足を感じた理由は2つある。
1つは時間軸の話である。現代社会は変動のスピードが早いため、最適解も常に変動するのではないか、ということだ。これについて、「最適解は常に変化する」ということであったが、変化するものの最適解を常に捉え続けるデザイン、というのが実際の行為として想像できなかった。
それから2つ目、こちらの方がより大きな論点になると思うのだが、「最適解」は人が置かれている立場によって変わる、ということだ。社会学や文化人類学的で社会をみると、マイノリティである集団マジョリティの合理性とは異なるルールで行動している。
インクルーシブに社会を考えていく時には全体の最適解、という考え方のみで政策がデザインされていくのは危険な気がする。最適解を探るにしても、複数の視点、もしくはルールごとの解を用意していく必要があると強く感じる。しかし、これはいちデザインだけで考えると非常に解決が難しく、社会学、経済学、あるいは政治学などと連携してい実施していく必要があるのではないか。あるいは、そういうプロセスやアプローチ方法の設計までをも含めて「デザイン」と呼ぶのだろうか。

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