342日目(つながらない②)
学校と保護者の関係は難しい。お互いに、立場が違えば考え方も態度もことなる。
久しぶりのお茶
長い間子どもが不登校だとゆっくり外食やお茶もできない。子どもも好きで学校に行けなくなるわけではない。一生懸命やった結果うまく通えなくなる。
不登校の要因
こんな言葉が使われるようになったのはいつからだろう。考えてみると、実はわたし自身も小一の時、登校しぶりであった。その原因について、いろいろな可能性が検討されていたことは後から聞いた(母から)が、それは一つの要因に限定するのは難しい。ざっと思いつくのは
小一プロブレム
わたしの記憶では、①の要因が大きかったように思う。当時の担任の先生はまだまだ体罰と指導の区別がなく、厳しかった印象がある。
すぐに友だちができなかったことも要因かもしれない。同じ保育園出身の女の子も何か怖かった(よくわからないけどつねられた覚えがある)
現代では、体罰こそないものの、そのギャップに苦しむケースは少なくない。園庭を一日中走り回っていた幼児が一日中机に座って学習するのはどう考えても不自然である。
そもそも、一斉指導による学習には限界が指摘されている。個別的かつ協同的な教室デザインが求められている(にもかかわらずなかなか変わらないのはなぜだろう)。
家族心理学
一方、②については、母が当時の担任の先生に指摘されたことがあるらしい。父と子ども二人のケアをしなければいけない状況に、余裕を失っていた母は、最終的に父と別れることを選んだ。
愛着形成と不安
③については、当時は全く自覚はなかったが、その後の人生において、漠然とした不安をもつことが多かった自分にとっては案外重要なポイントだったのかもしれない。愛着の問題は、無意識の領域の問題なのだと思う。
不登校はこころの休憩
不登校は、子どものこころが、「休みたい」と言っているのだと思う。とても大事なメッセージだ。
たしかに、「学校行きたくない」を言葉通りに受け取るのは難しい。少し通えば行けてしまうこともあるかもしれない。
だけど、こころは、我慢し続けるにしても限界がある。親子ともども頑張りすぎず過ごしていくこと、それを周囲やお互いが支えるシステムはいかにして可能か、考えたい。
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