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【『鬼滅の刃』ネタバレ注意】古事記から見る物語構造、あるいは、中空ではないヤンキーとしての炭治郎

鬼滅の刃は古事記をモチーフにしている

鬼滅の刃は、その物語の構造を古事記に由来しているという考察は、いくつか見られる。

 上記の記事のような見解に、わたしも概ね同意する。おそらく、古事記を鬼滅の刃はモチーフとし、イザナギ=産屋敷、イザナミ=鬼舞辻という構造で物語が展開されている。そして、カグツチ=竈門炭治郎、ということになる。ただし、アマテラス=縁壱、ツクヨミ=黒死牟、というのは、表面的にはそのように捉えられる(おそらく筆者はそのように描いている)一方、疑問も残る。なぜなら、その場合、スサノオをどのように表しているかが明確ではないからだ(水関連で行くと冨岡義勇のような気もするが…)。また、ツクヨミは古事記のなかでほとんど語られていない神様なので、物語が細かく描かれている黒死牟がツクヨミにあてはまるというのは少し安易な気がする。しかし、いずれにしろ、古事記におけるイザナミ、イザナギ、カグツチの関係は鬼滅の刃における鬼舞辻、産屋敷、炭治郎の構造ととても似ている。

中空構造の日本人像→ヤンキー→鬼殺隊、そして鬼

河合隼雄「中空構造日本の深層」によると、日本人は「中空構造」を持っている。これは、日本神話の古事記におけるトライアッド(3つセットの神様)の中で、多くの場合、全く語られない神様がいないことに由来している。たとえば、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの3柱の場合、ツクヨミの記述は古事記にはほとんどない。タカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒの3柱における、アメノミナカヌシや、ホデリ、ホスセリ、ホオリの3柱におけるホスセリも同様である。河合隼雄は、このような日本神話の分析から、日本人の心の「中空構造」を見出している。「中空構造」とは、「本質なき本質」である。私たちは普段、何か大切な決定をする場合、理論や根拠より、その場の「空気」によって決定を行うことが多いのもこの「中空構造」によるものと、河合隼雄は指摘している。また、精神科医の斎藤環氏は、「つぎつぎになりゆくいきおひ」(「歴史意識の『古層』」『忠誠と反逆』丸山眞男)を引用し、「中空構造」とヤンキー関係を考察し、「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」と表現している。実は、鬼滅の刃のキャラクターには、ヤンキー性が高いキャラクターが多く登場している。特に、鬼殺隊や鬼はヤンキー性が高い(斎藤環氏は、ヤンキー性を図る指標として『本宮ひろ志テスト』なるものを考案している)。宇随天元や不死川実弥、煉獄杏寿郎などは、まず、見た目からして(というかヤンキーは見た目が大事である)光り物が多かったり、言葉遣いが乱暴であったり、気合が大事だったりするわけで、細かい定義は置いておくにしてもヤンキー的な描写は連想できるのではないか。さらに、上弦の鬼の堕姫、妓夫太郎、猗窩座、獪岳などは同様の連想ができるように思う。(考えてみると、マイルドヤンキーっぽさがよくあらわれているよさこいソーランの衣装は、鬼滅の刃で出てきてもおかしくなさそう。富岡義勇とか胡蝶しのぶとか)

竈門炭次郎は何者か

ところで、ここまで書くとわからないのは、竈門炭次郎がいったいどのような存在なのかということである。前述したとおり、トライアッド(3柱)の中の1柱はあまり存在が語られることがないことから中空構造を見出したことから考えると、イザナギ、イザナミは2柱しか存在せず、そこに中空構造を見出すことが難しい。ところがこの間に入る1柱がカグツチであると考えると、話は変わる。トライアッドの中心は、決して中空ではなくなるからだ。古来から「火」は、天地を分ける存在として神話に象徴的に描かれることがある。私たち人間は、火を手にすることで、生活様式を大きく変え、自然を支配したり、戦争をしたりすることになったからだ。私たちは、この時から混沌とした自然の一部ではなくなり、自然を対象化することを始めたのだ。しかし、日本神話においては、カグツチはイザナミを殺し、イザナギに殺されてしまった。その結果、中空構造が生まれたとも言える。火は、古来からとても大きな力をもつ一方で罪深い存在でもあるのだ。そんなカグツチをモチーフとして描かれているのが竈門炭次郎である(また、鬼になってしまった竈門禰豆子は炭治郎と表裏一体である。それゆえに、物語の最後に、鬼だった禰豆子が人間に、人間だった炭治郎は鬼になる)。炭治郎自身は、物語の序盤、家族を大切にし、その幸せをかみしめ、日々を大切にいき(ヤンキーは家族も大切にする)、そこに、思想や信条はなく、ただ、日々を一生懸命に生きる「きよきあかきこころ」をもつ少年であった(単なる中空のマイルドヤンキー的なただし、ヤンキーほどオラついていないところは検討が必要であるし、それが炭治郎の資質なのかもしれない)。それが、鬼によって家族を失うことで、変わった。「つぎつぎとなりゆくいきおい」(というか、成り行き上)で、禰豆子を人間に戻すという素朴な動機で鬼殺隊に入ったにも関わらず、さまざまな出来事に遭遇していく中で、炭治郎は強くなり、鬼撫辻を倒すという大義に変化していく。まさに天と地(鬼と人間)を分けることを目的とした存在となっていく。

冨岡義勇と鱗滝左近次から見た竈門炭治郎

 前述のとおり、竈門炭治郎は、どうやら、鬼とも人間とも違う(物語において)存在である。印象的なのは第一話の冨岡義勇である。「こいつらは何か違うかもしれない」という第一話の印象的なモノローグからも、炭治郎と禰󠄀豆子を一筋の光のように見ている(ちなみに前述したとおり、富岡義勇をはじめ、柱たちはマイルドヤンキーである)。また、炭治郎に「この子はダメだ」とボヤき、「判断が遅い」と、炭治郎を喝破した鱗滝左近次も、禰󠄀豆子を保護し、最後には、「お前はすごい子だ」と、考えを改めている。
新たに何かが始まることを二人は予感しているのである。このことからも、炭治郎は、中空とは一線を画す何かとして想定されていると考えられる。

精神科医斎藤環氏の分析がおもしろい

上記にリンクを載せたが、氏の竈門炭治郎分析はとてもユニークで面白いだけでなく、本質を捉えているようにわたしは感じる。特に、「炭治郎には「想像界」が欠けている。だから「優しさ」はあるが「共感力」には乏しい」という部分はとても印象的であった。一方でその分析に対していくつか問いも生まれた。これについてはまた後日、検討してみたい。




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