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英米型自己啓発依存症

自分のやっていることを肯定したい。そんな時、自己啓発本は役に立つ。とにかく前に住むことを後押ししてくれるからだ。

でも、それって、自己啓発本に依存してはいないだろうか。だとしたら、それってなんだか可笑しい。

アドラーと自己啓発本

それらは主にアドラーの影響が強い。アドラーは過去や不安、トラウマを一掃する。そんなものはないのだと。

「嫌われる勇気」という少し前に流行し、いまでもよく売れている本である。

自分が他人からどう思われているか、そんなことを考えることには意味がなく、自分がただやるべきことを見つめ、それを実行する、そのことのみが大事である、そんな趣旨だ。

たしかに、他者の視点や過去を思考の中から追いやれば、私たちの思考や行動はとても明晰になる。他者を気にしない生き方ができれば私たちはとてもラクになれるらしい。

要するに、自己啓発本とは、依存しない自己をつくるための本だ。だから、自己啓発本に依存するなんて可笑しいのだ。

分断と自己啓発

一方で、他者を全く気にしない生き方などない。自分の世界で物事が完結し、その中で生きればよいということならば、私たちは他者と関わる必要はない。

しかし、わたしは他者のことは気になるし、一緒にいたいと思う。

他者を気にする視点がないということは、他者に寄り添うこともまた難しい。私には、人と人の隙間を拡大していった背景には、こうした考え方があるように思える。 

自己啓発と新自由主義

自己啓発本の流行には時代も後押しした。新自由主義(サッチャーとレーガン=イギリスとアメリカを端にしたマッチョイムズ)の中で人々はそれぞれが自分らしく生きる権利を得た。

その代わり、一人一人が自分が成功するか否かに自己責任を負うことになった。うまくいってもいかなくても自分のせい。

こうした自己責任論が蔓延し、経済ゲームの勝者は敗者を見下すようになる。

新自由主義と子育て

自己責任と言いながら、子どもたちの生まれと育ちは一人一人異なる。

こうした条件の違いを一切考慮しないままスタートした新自由主義は、世代を経るに従い格差を拡大させていった。

強者はますます自己啓発に励んで支配権を拡大し、弱者は家に籠るようになった。

キャリアコンサルタントの功罪

一方で、強者の中でも更なる競争が起こる。それを助けるのがキャリアコンサルタントである。

強者から高額の報酬を受け取り、人材開発を行い、強者をさらなる強者へと磨き上げる。そこでも自己啓発が行われる。

「わたしとあなたは違う。わたしはわたしのしたいことをみつけて磨きなさい」と。

勝ち続けるためにやめられない自己啓発

勝ちたいならば自己啓発を続けるしかない。英米に端を発した新自由主義は、アドラー心理学を利用して様々な自己啓発法を生み出した。

そして、勝利の方程式を待ち望む人々は、自己啓発本に縋りついた。

その意味で、これらの人々の行動を、「英米型自己啓発依存症」と名付けたい。

競争あるところに自己啓発あり。

脱落者

この競争についていけないものも存在する。1:8:1ルールの通り、勝ち抜け組、競争中組、脱落組に分かれていく。

キャリアコンサルタントは勝ち抜け組と競争中組には手を差し伸べるが、脱落組には決して手を差し伸べることはない。

経済ゲームのむなしさ

脱落組は、言い知れない敗北感を味わい、心を病む。こうなると、自己啓発本に出番はない。

不安にさいなまれる人たちに、「不安はない」といったら、心が壊れてしまう。実際に臨床現場で自己啓発(あるいはアドラー心理学)が用いられることはない。

競争中もいずれ勝ち抜け組と脱落組に分かれていくが、競争中に心を壊してゲームオーバーになるものも少なくない。

勝ち抜け組はどうか。おそらく彼らは気づいていない。自分たちの成功が、多くの偶然や幸福、他者の犠牲によって成り立っていることを。

なるほど、勝ち抜け組もさらなるゲームに参加しなければならない。過去のことにこだわってる余裕はないのだ。

競争依存症

私たちは何を競争しているのだろう。お金を稼ぐことか、経済的地位か、はたまた子孫をたくさん残すことか。

結局何を求めているかよくわからないままゲームは続く。

それでも、私たちは競争してしまう。勝ったときのドーパミンを忘れられないからだ。

結局、私たちは、競争依存症である。「英米型競争依存症」と名付けることにする。

依存症ならカウンセリングが必要だ

そう、本当に私たちが依存症なら、カウンセリングが必要だ。

人と人とが対話し、自分に何が欠けているのか、ゆっくりゆっくり自分の過去のトラウマと向き合う時間が必要なのだ。

自己啓発は依存性の高い覚せい剤のようなものだ。不安がないのだと聞くとその瞬間はなんだかスッキリした気になる。でも持続性はない。

不安は次々とやってくるのだ。大切なのは、不安を消すことではない。不安と付き合うことだ。

世代ごとの罹患率

英米型競争依存症、実は世代ごとによって少し事情が違うように思う。なぜなら、それぞれの世代はその時代の空気を吸って生きているからだ。

特に罹患しやすいのは50代。彼らは60~70年代生まれで多感な青春期にバブルを体験した。

子ども時代も第2次ベビーブーマーということもあり、パワフル。子どもの遊び場が、今に比べるとまだたくさんあり、子どもに対して大人が寛容だった。

母親は専業主婦が多く、家に帰ると母親がいた世帯が多い。一方、父親はサラリーマンで多忙、家は空けがちで会社が家だった。母性的にパワーをもらいつつ、父性的な超自我によるリミッターが欠けている。

要するに、肥大した自己を顧みず、突っ走る世代ということだ。新自由主義が始まり24時間働けますかと意気込み、とにかく何でもやれるというパワーがみなぎっていた。

半面、内省的な面に掛け、なんでもがむしゃらにやればできると思い込んでいるので、巻き込まれると少し面倒である。

あおりを受けているのは30~40代

70年代後半から80年代以降生まれの彼らは、学齢期がはすでにポストバブルにかかっている。

就職氷河期で、家庭的にも牧歌的な雰囲気が薄れた状態で育ってきている。

どこか不安で自信がない彼らは、ついつい50代以上の自信満々な態度に引っ張られてしまう。すると、いいように使われる。

自己啓発で武装した50代にはどこか気おくれするものの、その自信と弁に押されて、様々な仕事を振られる。

内省的な面があり、どこか完璧主義で、与えられた仕事をしっかりこなさないと気が済まない、まじまな人々だ。

そのあおりを受けるのが、彼らの部下や子どもたちである。私たちが一生懸命やってきたように、部下や子どもにも強いる傾向があり、それがブラック企業や児童虐待の原因になっている。

50代>40代>30代>20代というように、職場ではきちんと序列化が進んでいく。

20代前半~10代

ところがさらに年代を下げるとすこし事情が違ってくる。この年代はすでに格差が大きく、勝者組と敗者組に早い時期から分かれている。

勝者組は、50代勝者組の子どもたちであり、「小さなころから優等生」である。

ところが、である。彼らは自我の強い50代に育てられているため、どうも自信に欠ける傾向があるのだ。不登校やいじめが多発し、自殺も後を絶たない。

これは、子どもと大人の精神的な関わりが圧倒的に少ないせいである。愛着障害という言葉が10年前くらいから使われ始めたが、まさにこの世代は愛着障害世代である。

独立組

また、全世代通して、独立組なるグループがいる。会社という小さな競争社会から飛び出し、フリーランサーや起業家として活動する彼らは、共通して自己啓発にいそしむ。

徹底的に自己の不安を消し去り、ビジョンを明確にする必要があるため、自己啓発は必須である。彼らもまた、新たな英米型自己啓発症候群に罹患する。

自己をブランディングし、徹底して商品化する。「自己実現」「クリエイティブ」なる言葉を引っ提げ、市場に対峙する。

自己啓発は何のため

ところで、私たちは何のために自己啓発するのだろう。自己を実現し、クリエイティブであることは、本当に必要なことなのだろうか。

ドーパミンを出し続け、新しいものを作り続け、自分というブランド価値を上げ続けることにどのような意味があるのだろう。

市場においては、自分という商品を売らなければならない、資本主義の宿命である。

マルクスは資本主義に魂をうる私たちの精神を「疎外」という言葉で表現した。私たちの自己実現は実は資本主義の実現のプロセスにとって代わられている。

それは、資本主義システムという全体主義の実現の一部を担っているに他ならない。

自己啓発は自己実現のツールではない

自己実現という言葉、じつは私たちが本来捉えている意味とは異なる。ユング心理学において、自己は、私たちのイメージより大きなものを表している。

私たちが自己実現だと考えているものは実は自我実現である。自我実現とは「エゴ」の実現である。単に私がしたいことを実現するという意味だ。しかし、私というものを考えたとき、自我は、私のほんの一部に過ぎない。自己啓発は実は、自我啓発でしかない。

私がしたいことを見つけ、不安を消し(実際には消えないのにも関わらず)前に進もうということは、私全体を実現していくプロセスとしては不十分である。

むしろ、自我が強くなればなるほど、自己というものを捉えそこなうことになる。

自己とは

それでは自己とは一体何だろう。それは、思い通りにならないもの、つまり多くの不安なものを含めたものである。わたしたちがそれらとどう付き合っていくかが自己実現には必要である。その意味で、自己というものを私たち現代人ははあまり知らない。自己啓発(自我啓発)は、実は自己を見失わせるツールだ。不安をなきものにし、ひたすら前をみることは、視野を狭くし、人生の意味を貧しいものにしてしまう。

科学と不安

科学的な世界観は、不安を消すためにある。自然を支配し、人間の思い通りにすることで多くの脅威から身を守るという世界観だ。

多くの人々は、科学の発展によって不安が消え、私たちは幸福になると信じてきた。

科学は万能で、私たちはいつか何もかも理解し、完璧な世界が来ることを夢見てきた。ところがである。

そんな想定とは裏腹に、私たちは幸福度が下がり、自殺者が増え、自然環境が人間の暮らしを脅かしている。

そう、不安は決して消えることはないのだ。

不安と向き合う

実は、これは私たち日本人が本質的にずっと行ってきたものである。

自然豊かな日本は一方で多くの自然災害に見舞われ、地震、大雨、洪水、干ばつ、食糧不足と、常に不安にさいなまれていた。

自然は支配の対象ではなく、付き合うしかなかった。そんな環境だからこそ、八百万の神が生まれ、親しみを持って信仰してきた。

鬼や妖怪など、本来忌み嫌われるものですら、親しみをもって迎えてきた(ゲゲゲの鬼太郎や鬼滅の刃がその好例である)。

自我ではなく自己を中心とした生き方


私たちはいろいろなことを思い通りにして生活しようとし過ぎている。

でも生死に関わる問題など、思い通りにならないどうしようものないことがある。不安は消えない。ならば、自我(エゴ)ではなく自己(セルフ)を中心にして生きてはどうだろう。

ユング心理学においては、心には自我と自己の2種類の中心があると考えます。
「自我」と「自己」は区別される概念です。「自我」とは、意識(今気づいている自分)の中心です。一方「自己」は意識と無意識を合わせた心全体の中心を意味する概念です。
 また、自己は心の中心だけではなく心全体そのものを指すこともあります。
 自我が小さな自己充足的な円であるのに対して、自己は大きな円として理解することもできます。
(出典:臨床心理学用語辞典)

無意識は、私たち人間が備えている普遍的な感覚のようなものだ。それは自然の中にこそある。

自己充足的な自我にとどまり、それを維持するために何かに依存するのは、結局自我の中は空虚だからだ。

不安な自然の中にこそ豊かさがある。ならば、思い通りにならない世界そのものを受容できたほうがいい。

それは、立場や違い、あるいは自分自身を受容する態度である。

(引用元は下記から)


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