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【#3_卒論連載】電柱電線論の現在 と 本研究の範囲

💡 このnoteは2021年度私が執筆した卒業論文をもとに、大幅に加筆・修正を行ったものです。

要旨

 電柱と電線の社会学的な先行研究として近森(2017)の議論を整理する。さらにテクノスケープの理論を利用し、近森の議論を明瞭にし、かつ電柱と電線の「図」としてのあり方を明らかにする。その上で本論文が近森(2017)の議論の「とりあえずの積み重ね」の期間について詳細に分析していくことを確認する。




3-1 電柱と電線の社会学的な分析


 電柱と電線を社会学的な視点から研究した仕事は意外と少ない。それは社会学がモノに着目をしてこなかったこととも関連しているだろう。
 しかし、近年の人文科学のなかでの新しい物質主義といわれる潮流があり、物質それ自体に注目する研究が増えている。多くの分野を横断して物質そのものへの注目度が上がっている。

 日本ではインフラという物質と現代都市の社会学的な分析に試みた田中大介編著の『ネットワークシティ』(2017)がある。この節ではそのなかの一つのである、近森高明の論考を紹介、整理していこう。



3-1-1 趣味性の語りと公共性の語り

 近森(2017)は、生活を支える水道やガスといった地面に埋め込まれた「不可視のインフラ」に対して、電柱や電線を「剥き出しのインフラ」とうい言葉で表現する。
 そして「剥き出しのインフラ」なのにも関わらず、日常的に電柱と電線が意識に登ってこないことを指摘し、「見えてはいるが、気づかれてはいない」ものと表現もしている。

 さらに、電柱の存在の現在地として、特に無電柱化の議論においては「公共性の語り」と「趣味性の語り」の二項対立的な構図になっていると指摘している。

「公共性の語り」とは景観面、安全面、防災面の観点からの語りである。電柱と電線は街並みの景観を損なうという景観面、電柱は歩行空間の障害物であり、特にお年寄りや子供、障害者にとって危険なものである安全面、地震などで倒壊を起こすと緊急車両が通れなくなる、切れたケーブルから感電の危険がある災害面などがそれにあたる

 一方、「趣味性の語り」とは電柱電線がある景観を良いと捉え、電柱電線の形状を評価するフェティシズム的な評価、懐かしいものとしての記号をノスタルジーとして評価するなどの語り方である。アニメの中での電柱の表象やインフラ萌えの文脈上に存在すると考えられる電柱マニアといった具体例をあげることができるだろう。

 近森はこの二項対立からこぼれ落ちてしまう次元として「とりあえずの積み重ね」というキーワードをあげている。「とりあえずの積み重ね」とは人間と電柱との交渉の履歴である。



3-1-2 とりあえずの積み重ね

 人間は電柱を街中にある電柱を街中で唯一私的領域の網の目を逃れたモノとして享受、利用してきた。例えば、張り紙を貼り付ける場所や広告の場、犬のトイレ、ゴミ収集所などである。
 電柱は本来的な機能は電線を支持するものであるが、人間との関係の中においては「街中で唯一、私的所有の網の目を逃れた、いわばコモンズ的な飛び地」(近森 2017: 197)としてあるということだ。

 そういった特徴を持つ電柱を「コモンズ的インフラ」といい、電力インフラや情報通信インフラを支える役割以外に人間とだらしない関係を積み重ねてきた。

 このように人間と流動的に関係を取り結んできたその履歴こそが「とりあえずの積み重ね」であり、「公共性の語り」と「趣味性の語り」の二項対立はそういった「とりあえずの積み重ね」という事実を通り越した議論であることを指摘しているのだ。




3-2 テクノスケープとしての電線と電柱

3-2-1 テクノスケープとは

 計算によって最も合理的な形に作られているインフラであるが、それらが作り上げる景観を「テクノロジー」と「スケープ」を合わせた造語である「テクノスケープ」と呼ぶ。

 「テクノスケープ」は無機質で冷たい印象を与えるものが多いため嫌な景観として捉えられることが多い。

 しかし一方でそれらの構造物が持つ大きさや形状の面白さに気が付かれると肯定的な評価をされることもある。工場萌えなどはその現象のわかりやすい例である。岡田昌彰(2003)はテクノスケープがなぜ肯定的な評価を得ることができるのかの理論を確立している。

図3-1 | テクノスケープの例(photo by ボブ フリー素材ぱくたそから引用)

3-2-2 テクノスケープの理論

 岡田昌彰(2003)のテクノスケープの理論について説明をする。

 岡田はテクノスケープの評価のされ方を以下の図3-1の二つに分けており、時代の背景や時間の経過によってテクノスケープのイメージが変化し、その評価が変化していくことを指摘している。図3-2はそのイメージの分類である。

図3-2 | テクノスケープの評価
図3-2 | テクノスケープのイメージの分類
図3-3 | テクノスケープのイメージの分類

 これらの理論から岡田はテクノスケープの評価のダイナミズムを以下のようにまとめている。

ものが建設され、それに対するパブリックアクセスが生じ、ときには公害問題や環境破壊によるテクノフォビアが発生し、その克服後に新たな景観的価値が生起する。

(岡田 2003: 106)

 本論文に則して言えば、「パブリックアクセス」とは、構造物に対する嫌悪感や近代化の証として評価などを指す。「テクノフォビア」とは、テクノロジーに対する嫌悪感である。さらに「新たな景観的価値」が生成されることを岡田は「景観異化」と呼び、以前の価値観(意味)が棄却されるとテクノスケープの形而下的特徴つまり、即物的な「形」が着目されるようになるという。

 上記の理論を電線と電柱に応用しイメージの変容を考えると3つの期間に分類することができる。


(Ⅰ)創設期の「異化」と「排除」

 創設期には西洋から取り入れられた新たなテクノロジーとして、異化(肯定的な評価)と排除(批判的な評価)が同時に行われていた。
 肯定的な評価
は日本が西洋の文化を取り入れ成長していく未来や夢に対する形而上的な評価や、電燈が東京に設置され始めてから物珍しいもの(希少性)としての評価がされていた。 
批判的な評価としては科学に対する恐怖感(テクノフォビア)や全国に張り巡らされた電信線は近代国家の中央集権を表すようなものであり嫌悪されていた。通信線の普及の大きな理由な1つに軍事力という面があった。そういった通信線にたいして民間人の中には国家権力の化身として一見不可解な電信への攻撃が過激化していた事もあったのである(松田 2001: 51)。


(Ⅱ)創設期以降から近年の「同化」と「埋没」

 電柱が一般的になり始めてきた20世紀初頭から「同化」と「埋没」がはじまる。1912年には東京市内に電燈が完備され、電力の普及と共に電線と電柱も一般的なものになっていく。近森は電柱と電線が生活空間に露出している状況を自明な環境とみなし、次第に都市空間の一部として自然化していったとしている。
 電線電柱の増加とともに人々が電線電柱に対して「馴染み」が進行し、元々持っていた希少性や特異性などは喪失していったとも考えられるだろう。


(Ⅲ)近年の「異化」と「排除」=景観異化

 近年、電柱マニアの誕生や電柱絵画展などの電柱の価値を再認識しようとする流れがあるこれらの運動は創設期の形而上的な肯定的な評価とは違い、モノのカタチの面白さや電柱がある景観に対する肯定的な評価など形而下的な美的評価と構造物の再発見に移行しており、価値転回が起こっている。
それと同時並行的に電柱に対する排除の動きもある。現在、東京都では災害や景観、交通機能、オリンピックなどを背景に「東京都無電柱化推進計画」が進んでおり、増員2.5m以上の都道における無電柱化を進めている。それらのキャンペーンでは電柱がある景観が悪いものだと真逆の美的評価を受けている。
いずれも着目されているモノの一つとしての電柱と電線のカタチの良し悪しであり、景観異化が起こっていると考えられる。

図3-4 | 電柱と電線のイメージ変容



※「電柱と電線」の景観異化についての詳しい分析は番外編で!



3-2-3 二項対立の整理

  前項までで整理した電柱と電線の変容を、【#3-1】で紹介した近森の議論と交えながら本論文において注目すべき点を整理しよう。

 図3-4の景観異化後の「排除」と「異化」はまさに、それぞれ「公共性の語り」と「趣味性の語り」とリンクするものであろう。

 それに対し近森がいう「とりあえずの積み重ね」とは(Ⅱ)〜(Ⅲ)に横断する「地(埋没と同化を含む)」の部分であろう。


 図3-3ではこの「地」の部分は「同化」と「埋没」という括り方をした。どちらも長時間、電柱電線というものがそこに存在していたため「馴染み」が生じ、一方で電気と通信を支える構造物以外の用途が第三者によって与えられるパブリックアクセスが生じた「同化」、一方では存在そのものが忘れ去れていく「埋没」が起こった。

 ここで注目したいのは「同化」の部分である。電柱特有の特徴でもある上部空間に存在するということは人間や動物、モノに「コモンズ的インフラ」としてパブリックアクセスを可能にし「同化」を進行させた。
「同化」の過程は「とりあえずの積み重ね」と言い換えることも可能であろう。

 「排除」と「異化」、「公共性の語り」と「趣味性の語り」といった二項対立では捉えきれていない、「地」としての「同化」「とりあえずの積み重ね」の空間としての電柱と電線と都市空間との関係性を探っていく余地がここにはあるだろう。

図3-5 | 電柱と電線、「地」と「図」の変容



3-2-4 「とりあえずの積み重ね」の捉え方

 近森は「とりあえずの積み重ね」のという歴史的な事実の厚みが重要だという指摘をしてきた。しかし、電柱と電線は都市空間のなかでどのような積み重ねを行ってきたのか、それ自体の検討をやりきれているとは言えない。

次章以降では「とりあえずの積み重ね」の事象を整理することによって電柱と電線が都市空間の中でどのような立ち現れ方をしてきたのかを検討していきたいと思う。


 では、この「とりあえずの積み重ね」はどのように捉えていくことが可能なのだろうか。「とりあえずの積み重ね」とは人間と電柱電線が取り結んできた関係だけではない。それは電柱電線や人間、その他の動物、都市構造、インフラ構造、災害、祭、資本などの複数のアクターが相互に影響し合い、協働プロセスとして関係を取り結び、積み重ねてきたはずである。

 これまでの社会学は人と人との関係性を中心に学問を発展させてきたが、人やモノといった関係性を横並びにし、その関係性を捉える社会学的なアプローチが必要であろう。

 次章では人に特権を与えてきた人文系の学問の流れを批判的に捉えている新しい物質主義についての整理を行い、電柱と電線を社会学的にどう捉えられるのかを考えよう。




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記事一覧

📚(このnoteの)引用・参考文献リスト
松田裕之著,2001,『明治電信電話(テレコム)ものがたり:情報通信社会の《原風景》』日本経済評論社.
岡田昌彰,2003,『テクノスケープ同化と異化の景観論』鹿島出版会.
近森高明,2021,「電柱・電線――立て/埋める」田中大介編著,『ネットワークシティ』北樹出版.




ここまで読んでくださりありがとうございます。 今後、「喫煙所」の研究をする際に利用する予定です。ぜひよろしくお願いします!