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ヤジらず、ヤジりて、ヤジる、ヤジるとき

むかしむかし、僕が小学生くらいのときのことである。父に連れられて東京ドームへ行ったとき、ここは日本ではない、無法地帯ではないかと強烈な印象を覚えたことがある。

オッサンたちが飲む、八百円ばかしの黄金の水ビールが彼らの体内へ入り込むと、その数分後彼らは狂ったかのようにグラウンドへ叫ぶのである。

「アホー!」
「馬鹿野郎ー!」
「何してんねん!ボケぇ!」

こんなこと、小学生が友達へ教室で言ってみようものなら即刻保護者へ連絡だ。家でこっ酷く母に叱られるところまで未来が見える。

僕はこのオッサンたちに怯えながら、全く野次を飛ばさない父に身体を預けて野球観戦をしていた。

ーーー

今宵、僕は、「ヤジらずの誓い」を立てた。野次界隈のるろうに剣心である。

あれだけオッサンたちの野次に怯えていた少年は、22歳ともなると野次をせずには野球が観られない体質に変化していた。これはチョコレートを食べ過ぎると鼻血が出るのと同じ原理で、野球を長年観ていると野次が出てしまう。言わば、この世の条理というものである。

とはいえ、僕の発する野次というのはそんなに酷いものではない(と思っている)。なぜなら僕はカープを愛してやまないし、選手たちが好きだから彼らの人権を侵害するような野次は言わないと決めているからだ。

熱くなっても「何やってんねん」、「それはないわー」と呟く程度で叫びはしない。

だが、野次というのはどこからが野次なのか際どい。叫ばなければ野次ではないのかといえばそれは違うし、人権侵害しなければ野次にならないとも言い難い。

したがって僕の発する野次はソフトな野次こと「ソフヤジ」である。

困ったことに、僕は野球を観ているとこのソフヤジが止まらなくなってしまう。かっぱえびせんと張り合うほどの、やめられない・とまらないヤジ

しかし、この野次をとうとう封印しなくてはならないときが来てしまった。

僕は女の子との野球観戦をすることになったのだ。それも幼馴染みたいな気を遣わない間柄ではなく、最近出会ったばかりの女の子である。だから当然気を遣うわけだし、何よりそんな野次をぼやいていたら嫌われてしまうではないか。

女の子と二人で野球観戦をした経験は過去にも何度かあるが、それは割に遠い過去であるため正直どのように観ればいいか分からない。しかし、ヤジってしまえばそれで最期であるような気がしてならない。

ということで、ソフトな野次も封印しなくてはならない。「その日」の前に、一度練習としてテレビでヤジらないことを意識して試合を観戦してみたが、気づいたらすこぶる口を開いて、唾を飛ばしまくっていました。果たしてどうなることやら……

ーーー

その日は口にガムテープをつけて行こうかと思ったが、単純に応援歌を口ずさめないのでやめた。「それ行けカープ」が歌えない野球観戦なんて、僕からすればタコのないたこ焼き同然である。

るろうに剣心の「逆刃刀」的な保険があるといいのだが、野次界隈においての「逆刃刀」はいくら考えてもなさそうである。

……いや、思いついてしまった!
逆刃刀ほどの有用性は絶対にないが、保険として試合が始まる前、座席に着いた後でカミングアウトするのだ。

「僕ヤジ癖あるから、もしヤジったらごめん」

攻撃は最大の防御である。

冗談半分で笑いながら言ってみたが
「野次ってる夏輝くん見たくないよ」
と言われてしまい、2アーウト2ストライク。試合の前に僕は窮地に追い込まれた。

ーーー

ファンファーレと共に試合が始まる。
絶対にヤジらないと覚悟を決めた試合。だいたい一人で観ることが多いから、女の子が左隣にいるいつもと環境の違う試合は違和感がある。しかしそんなこと応援には関係ない。僕は普段通りカープを全力で応援した。

その女の子は熱烈なカープファンではなかったが、彼女の話だと広島にルーツがある人物であるようだった。僕の持っている小園海斗のハイクオリティユニフォームを着せ、鳴物を手に持たせて生粋のカープ女子に仕立て上げました。まあ、ほら、レフトスタンドの真っ赤な席で観ているのでTPOってやつですよ。

初回はカープの応援に慣れさせる意味で特に何も応援の指導はせずに座って観戦していたが、3回以降、僕は彼女にスクワット応援を教えて実践させた。

スクワット応援とは、その名の通り座席で立ったり座ったりを繰り返しながら応援をするカープ伝統の応援スタイルである。

僕がやったのはスクワットのカツアゲですけれど。スクワットパワハラとも言えますね。

結果として大変楽しく試合観戦できたのでよかったし、肝心の野次も僕の喉元で大抵は止まってくれた。

ヒットを打たれて「あーーーー」とか、カープの選手が併殺になって深いため息をついてしまったことは反省点ではあるが、まずまず合格点でしょう。

8回くらいになるとオッサンたちの野次が飛び交い始めた。

「帰れボケぇ!」

アルコールの摂取量が増えて彼らが饒舌になるのが試合終盤のこの頃である。僕はこの観客たちの野次こそ野球の醍醐味だと思う。ただ、僕にヤジ癖があるとはいえ、ここまで過激ではないとあらかじめ彼女に弁解しておけばよかった。

カープはというと、前半戦はいい流れであったがさらっと逆転されていた……まあ想定内である。これまで幾度とサヨナラ負けを生で観たことか。

しかし想定外だったことが一つある。
それは、一緒に野球を観た女の子に審判を煽るヤジ癖があったことだ。

オッサンたちとは対極的な甲高い声で彼女は口を開く。

「今の(ストライク)入ってんだろォォー!」

「それはボールだよォォォー!」

「今のセーフでしょォォー!」

彼女はソフトボール経験者ということもあり、野球のルールやストライクゾーンについての見識は十分。カープサイドを盛り上げるような僕よりもずっとソフトな野次の使い手であった。ソフトボールをやっていたということで、彼女が発するヤジこそ真の「ソフヤジ」なのかもしれない。

ちょっと気が合うかもしれない、なんて共通の趣味「野次」を通じて思ったが、まあ所詮は野次である。野次が好印象に作用するのはかなり特殊な例であるとはいえる。

僕たちの席の前には赤いユニフォームに袖を通した親子がいた。小学校低学年か幼稚園児かそこらの少年と彼の両親。

その少年は時より僕たちの方を振り返ってニヤニヤしていた。茶化しているのかと一瞬思ったが、彼の様子を見ていると僕とは全く目が合わないことに気づく。どうやら隣の彼女のことをずっと見ているようだった。野球観戦しに来ているのか、彼女を観に来たのか分からないくらいチラチラ見ている。

少年は、彼女がソフヤジをしても後ろを振り返ってニヤニヤしている。女の子の発する野次というのは年齢を問わず魅力的なものなのだろうか。

9回表、最期の攻撃の前にその少年と両親は席を立った。彼らからするともうおねむの時間である。途中帰宅は最善の選択だろう。

彼は帰り際、眠そうな目を擦ってこちらを向いた。それでも表情は相変わらずニヤついている。彼はこちらにバイバイと手を振る。もちろん視線は彼女だけであり、僕が手を振っても僕に手を振りかえすことはおろか最後まで僕と目が合うこともなかった。

「お姉さんが好きなんだね」

彼の母が微笑みながらそう口にした。ごもっともだと思う。間違いない。これで実は僕のことが好きだが、ツンデレなのであえて僕から目を逸らしているという可能性は投手の打率の1000分の1くらいではないか。

僕は声を大にして言いたい。

ここにいるのはヤジガールだぞ!と。

小学生にとってヤジとは普遍的に恐ろしいものではなかったのか。

いや、分かるんやで少年。ヤジる女性は確かに魅力的なのだが、彼がそれに気づくにはいささか早すぎるし、何より特殊すぎるのだ。

あ、そうか。この少年はヤジる人間を好きになるのかもしれない。そう考えると、ヤジを控えていた僕の方を見向きもしなかったのは当然か。やはり、ヤジらなければ野球ではないのか。ヤジらなかった僕に人権はないのか。ヤジこそ至高だったのか……

今度球場に行ったら絶対にヤジってやりましょうぞ。野次で子どもに好かれるデータあるし!(n=1)

【追記】
野次は野次でもソフヤジだから許して。この記事に対するソフヤジは受け付けています。


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