見出し画像

ひどく傷つけた経験。

今回は、草野球を見ていて思いついたフィクションです。

良ければ一読ください。
_____

「私は一度、人をひどく傷つけた経験がある」と彼は言った。

****
 彼が小学生だった頃、夏休みが始まって2日目に、近所の友達と上級生と草野球をしていた時のことだった。
 彼は、フルスイングをした金属バットを空振り、グリップが緩んだことで誤って真後ろにバットを放ってしまい、上級生の一人、それも女の子を深く傷つけてしまった。
 怪我は深刻で、その子は救急車で病院まで運ばれた。
 そして、即日の手術が行われた。
 彼はその出来事に打ちひしがれて意気消沈した。
 自分を責め、取り返しのつかないことをしたと頭を抱えた。
****

「私が人を深く傷つけてしまったことを聞き 、大人たちは『誰もお前を責めはしない。それは事故で、怪我をした子も、お前も気の毒だったな』と言った。
 私は、もちろん故意ではないのだから事故だとは理解していたが、同時に自分は責められるべき対象であると確信していた」
 彼は唇を軽くかんで、頭の中の記憶を辿ろうとしていた。

「小学生には酷なシチュエーションですね」と僕は言った。
 正直、それ以外になんと言っていいのかわからなかった。

****
 彼は自分自身を責めていた。
 事故と言ってもやはり責任が伴うということに何ら疑問も無かった。
 しかし、この時の大人たちの言葉は、後悔をするばかりだった彼にとって大きな救いだった。
 そして、それは周りの大人たちだけがくれた言葉ではなかった。
 その事故の現場に居た上級生たちも、彼に向かって同じ言葉をくれた。
 『誰もお前を責めはしない』と。
****

「事故現場で立ち尽くし、言葉を失う私を含めた下級生に対して、怪我をした子をいち早く介抱し、救急車を呼び、病院まで付き添ったのは上級性たちだった」
 彼には何か情景が見えているのだろう。
 自分の犯した過去の過ちに対して、いったいどんな感情があるのだろう。
 僕にはそれが気になった。

「先生はきっと後悔しているんでしょう?」と僕は聞いた。
 彼は僕を見た。
 その眼には特に感情は見られなかった。
 そのうち彼は、何か見つけたような顔をした。

「そうだな...」と彼は言った。

****
 彼らは謝るばかりの彼に『けがをさせた彼女には謝っても、周りに謝ることなんてないよ。それに彼女は大丈夫、あなたの責任じゃないって言っている。だからもう謝らなくていいよ』と言った。
 初めその言葉を聞いたとき、彼は何を言われているのかわからなかった。
 彼はその場に居た全員に謝らなくてはいけないと思っていたし、事故の現場に居合わせたほとんどの同級生はうつむきがちに、謝罪の言葉を待ちながら、それでも自ら彼に話しかけようとする人はいなかった。
 彼と目すら合わすことを嫌がっていたように見えた。
****

「私は数々の失敗を重ねてきた。
 同級生はその日を境に私を避けるようになった。
 その反応はよく知っていた。
 だから特にそれで落ち込んできたということもなかった。
 深刻で、笑えない状況に突然立たされれば、誰でも気分が暗くなるし、言葉を失うものだ。
 そして、その原因を作った人間に近寄ろうとはしない」

「いじめがあったんですか?」と僕は聞いた。

「明確ないじめはなかった。
 ただ、避けられているという感覚が私の小学生の思い出だ。
 そういう感覚だけが、今でも記憶の中に残っている」と彼は言った。

****
 同級生たちは『(少なくとも)これは私のせいじゃない』とそれぞれに自分じゃなくてよかったと、胸を撫で下ろしながら、『これは大変だな。これからどうなるのだろう』と野次馬根性で彼を見ていた。
****

「私は同級生を責めたくなってね。
 彼らにも責任の一端はあるだろうって思ったんだ」

「その気持ちはわかりますよ。
 特に小学生には酷な話でしょう」と僕はまた言った。

「でも、この一連の経験から、私には大切な何かが欠けていると思うようになった。
 何か大切な感情が置き去りにされている、という方が正確かもしれない。
 あの日から、私は泣けなくなった」

 彼はそう言うと、ポケットから懐中時計を取り出した。

「これは、その怪我をさせた女の子の父親からもらった時計なんだ。
 私は今もこの時計を見る度に、小学生のころを思い出す」

「先生、その懐中時計止まっていますね...
 とても古い時計みたいだ」と僕は言った。

 その時計を今でも大切に持っていることが驚きだった。

「数か月前に止まってね。
 もう電池も古い型だし、そう簡単には見つからないんだ」と彼は言った。

 驚きついでに余計なことを言ってしまったかもしれない。

「その時計が先生にとって特別なものなのは分かります。 
 ただ、何年もそのまま止まり続けていた時計にも見えますね」と僕は言った。

 彼と会うのはこれで最後かもしれないのだ。

「古いモノを大切にする質なんだ。
 腕時計もしているがね」と彼は言った。

 そう、彼はとてもシックな腕時計をしていた。
 貰い受けたという懐中時計は、その時計にも、この場にも、あまりに不釣り合いな気がした。

小説を書くものすごい励みになりますので、サポートして頂ければ有難いです。