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これはアートではない、しかしそれはデザインでないと誰がいえる

ふと目にした物体を見て、これってアートだよなと思うことがある。たとえば、工事ために道路を仕切るため高さ3メートルくらいの錆びた鉄の壁が設置されているのを見て、なんかリチャード・セラの作品のようだとか……。

しかし、私がそう思ったからといって、それがアートになることはない。

だが、もし、どこかの有名アーティストが「これはアートだ」と言い出して、それが他のアーティストや評論家やキュレーターたちに広まって、一部の影響力のある人たちがその視点を面白がりはじめると、それがアートになることもある。

アートの面白い点は、正統性や伝統に重きを置くシステムを持ちながら、一方で、新しい時代には新しいアートを求める傾向も強く、権威や既成概念へのアンチテーゼを継続的に生成するシステム自体も併せ持っているところだ。

たとえば、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」。トマソンとは1981-82年巨人に在籍した元メジャーリーガー、ゲーリー・トマソンのこと。赤瀬川は三振の山を重ねてファンの期待を裏切ったトマソンを、街角にひそむ無用の人工物に見立て、「超芸術」と名づけ、哀愁とユーモアの入り混じる独自の視点で街角の無用物を探し出し、その行為そのものをアートとした。

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デュシャンの便器をアートにしたのは、科学者でも政治家でも裁判官でもない。アートであるか/アートでないかを決めるのは、アートのシステム自体である。科学ではアートを定義できない。政治権力がこれがアートだと押しつけたり、法律でこれはアートだと定めても、アートはそれらをするりとかいくぐる。アートのシステムが決めたものだけがアートなのだ。

私の子どもが描いた絵は天才的だから美術館に収蔵してくれと母親がいくら訴えても、アートの世界である程度の影響力のあるアーティストやキュレーターや美術評論家が、その子の絵はアートだと認めない限りは、美術館に半永久的に収蔵されることはない。

デザインとアートの違いを、デザインは依頼者がいて、アートは自由な自己表現だとか、デザインは問題解決でアートは問題提起だなどと言う人たちがいるが、自由な自己表現と本人が思っていても、その表現はその時代の特有の物の考え方に縛られているし、問題提起のデザインもある。しかし、アートをこうした社会システムとして捉えると、その答えは意外とはっきり見えてくる。

アートの社会システムは、アーティスト、キュレーター、美術評論家、美術ジャーナリスト、美術史家、ギャラリスト、コレクターといったプレイヤーと、それらの人たちが活動の場としている美術家団体、大学、美術館、ギャラリー、美術系メディアなどの組織で構成されている。

これらプレイヤーや組織はひとまとまりで動いているわけでない。現代美術、メディアアート、美術工芸、日本画といったジャンルがそれぞれサブシステムを構成していて、さらにダンスや演劇や音楽や映画といったジャンルともつながり合って、大きなアートの複合体というようなシステムを形成して、システム内のプレイヤーが、アートの文脈を生成し、アートとして評価されるべきものを、アートのシステムのなかで再生産しつづけている。

プレイヤーと組織たちは、絶え間なく展示をしたり展示を見たり、コンペを開催したり新人に賞を与えたり、批評を書いたり議論をして、アートの文脈を保持もしくは更新しつづけ、アートの価値を維持しつづける。

アートのシステムのプレイヤーは、その影響力を保つために活動をつづけないといけない。作品をつくらなくなったアーティスト、批評を書かない批評家、展示を見に行かないジャーナリストは次第にアートの文脈形成の場から脱落して、その審判者としての立場を失ってしまう。

わが子が描いた私の顔が私にとっての最高のアートという言い方はもちろん成立する。しかしそれは個人が紡ぎ出すナラティブ(語り)であって、それが回収され統合されて、アートという社会システムを形成するわけではない。

すべての人に開かれたアートとか、すべての人が芸術家といっても、そうした試み自体が、何がアートとして成立するかという議論の延長線上のものなのである。

ヨーゼフ・ボイスは「人は誰でも芸術家である」という言葉を語ったが、この言葉はアートという社会システムに回収されて、ヨーゼフ・ボイスというアーティストの伝説をつくり出すために大きな役割を果たしていった。

アートコミュニケーションや関係性のアートの文脈でよく言われる「アートはもっと開かれていなければならない」「アートはみんなのもの」「鑑賞者と作者の垣根を外す」といった言説は、アートの社会システムのなかで重要なテーゼとなっている。

しかしそれは、人がつくったものはなんでもアートだと言っているわけではない。開かれたアートの在り方を模索するという現代アートの文脈を意識した現場のなかでつくられたものだけが、アートとして認められていく。

しかも、美術館でのワークショップで子どもたちが描いた絵と、美術館の展示室に掛けられている有名アーティストの絵画作品とでは、その取り扱いに大きな差異があることは自明のことである。

アートは、開かれているとは言いながら、素人はたどり着けない、先に挙げた審判者たちによる濃密な議論から生まれるコアの部分があって、アートか否かを議論しながら作品の価値を決めていく強固な価値生成システムが存在するのだ。

その点、デザインはアートと違って基本的になんでもありである。

高さ3メートルの錆びた鉄の壁は、何らかの目的のために誰かがデザインしたもので、それがデザインであることは議論の余地がない。

デザインには、それが良いデザインか否かを語る組織はあっても、デザインであるか/デザインでないかを審判するシステムは存在しない。なぜなら何でもデザインだからだ。量産技術や情報伝達技術が世界を覆い尽くしたこの世界において、デザインは私たちの生活の隅々にまで有形・無形に遍在している。人が何かの狙いや目的をもって作ったものはみなデザインと言ってよい。

デザイン史というものがあるが、それはデザインのごく一部にすぎない。実際にはデザインの歴史は記述不可能である。なぜなら世の中に溢れる大量生産技術を利用した人工物すべての歴史を記述するのは不可能だからだ。

デザイナーという肩書きを名乗っていなくても、工場の設計者が製品をデザインしているケースは多々ある。独学でイラレやフォトショを覚えて広告チラシをデザインしている人もたくさんいる。中学校の文化祭の開催を伝えるポスターをバウハウスとかタイポグラフィとか言葉を聞いたことのない中学生がデザインしたからと「これはデザインじゃない」などと言うことができないのだ。

この道路の工事現場にたまたま設置された鉄の壁は、歴史に残るデザインではないにしても、それはデザインである。もしそれを評価するなら、それがデザインとして成り立っているか否かの議論でなく、それが良いデザインか、つまりグッドデザインか否かを論じることになる。狙いどおり機能しているか、効率性は高いか、安全性は担保されているか、フォルムは美しいか、地球環境に配慮した製品か。時代をリードする革新性はあるかといったころが論じられるのであり、これはデザインでないかといった議論は無意味である。

グッドデザインという言葉は成り立っても、グッドアートという言葉は使われることがない。アートを評価する基準は、人々の暮らしや社会に対してグッドかバッドかを問うものではなく、それがアートとして成り立つか否かなのである。

アートは、アートとは何かの定義をくり返すことで自らの価値と意味を再生産しつづける再帰的なシステムそのものであるのに対して、デザインは、何らかのの目的を達成するために何かを計画したりつくったりする「未来」を創る行為である。

しかし、未来なんて何が起こるかは本当のところ誰にも分からない。どんなに緻密に計画しても、パンデミックが来たり地震が来たり、不慮の事故などのために計画どおりなど進まない。

それゆえデザインはどこかに胡散臭さを抱えることになる。未来に何が起こるかなど本当は分からないのに、分かりますという顔をして、事を起こすのがデザインだからだ。

しかも、デザインの歴史は産業革命以降であり18世紀半ばからで、まだ300年経っていない。ラスコーの壁画から始原を辿れるアートと違って、参照できる過去の文脈の歴史が浅い。デザインは絵画・彫刻・工芸・建築などのように長い歴史を持たない分、望ましい未来を実現するといって未来に依存することになる。しかし、その依存する未来というものは、まだ影も形も「無い」ものだ。無いものに対して在るような顔をして事を起こす。だからやっぱり胡散臭い。

だが、そうした胡散臭さと立ち向かうために、デザイナーはプロトタイピングを繰り返す。あれやこれやとつくってみて、それを試してみて、分からないことなどなかったふうにちょっと無理して、未来に「企て」を投げかける。だから、デザインは面白い。

●この記事の写真は、2018年福岡県志賀島でサイクリング中に撮影したもの。タイトル写真はちょっとだけセラ風の鉄板と、文中写真はその近くあった道路工事現場の何かを示す謎の円形。

●このテクストは、2018年にウェブマガジン「Byron」に寄稿した「デザインの味方である僕の「デザインの見方」!?」という記事を加筆改変したものです。自分のお気に入りの記事だったのですが「Byron」の記事がもう読めなくなっていたので、こちらにアップしました。

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