片脚を(改訂版)
最近、はじめましてで話すことが多かったり、元々繋がりのあった方々と改めてやり取りをする機会が多かった。こころが動く瞬間も多かった。
忘れたくないので書き残しておきたいと思う。
先輩の手伝い
先日記事にも綴ったことだが、住職をされている先輩のところへお彼岸の手伝いにいったこと。非日常的な場であり、人が人を想うことを少しだけ考える時間になった。また、『ふたりの墓』と書かれた墓石が印象に残った。死してなお共に在る。それが素敵なことに感じた。
死んでも人のこころに残る、影響を与えられる人になりたいという欲求は私にもあるようだ。何故なのかはわからない。やはり存在論に戻ってくる。昔の人も、そして未来の人も、同じことを思うのだろうか。だとしたら人間のこの欲求は何を意味しているんだろうか。
先輩ご夫婦の長男君は大きくなってて可愛かった。人見知りしてたみたいだが、最後に一緒に遊べて嬉しかった。
インプロの師とのやり取り
初めて私にインプロを教えてくれた方とオンラインでインプロをやることになった。コミュニケーション向上にインプロを用いる企画を進めているらしい。そこでワークの被験者として選んでくださったということのようだ。
ひとつひとつのワークをじっくり振り返ってみると、気付かなかったことが色々あったので私としても収穫がめちゃくちゃ多かった。インナーマッスルが鍛えられた感じである。
4月には対面でのWSがあるので既に楽しみである。インプロバイザーさんがいい人なのでただただ久しぶりに会いたい気持ちもある。
最近、先々に楽しみを作っておくことは思っているより大事なこととしみじみ知り始めている。演劇関係のことで予定が埋まっている日々は一日休みがあると台本読み込みとか読書とかで使っていたから遠出をしたりとか、他に楽しみを作るなんてことも発想からそもそも無かった(コロナ禍でも意地で演劇ずっとやってたからあんまり暇じゃなかったんだなとも。そのせいもあってか振られているが。馬鹿でい)。
感情ダイアローグ
銀座のとある会員制カフェで、感情ダイアローグというものを行った。そもそも会員制カフェなんてあんのかよって驚いた。建物の10階で眺めは最高だった。劇場にもなるところのようでいい数の照明が吊られていた。今度出てみたい。
感情ダイアローグには私含め4人。私だけが初参加だったようである。ファシリテーターが進行やタイムキーパーなどもやってくれた。ファシリテーターの方はCMなどにも出演されている方で、お会いする前に経歴をみたときには驚きで白目を向きそうになった。
決められた時間の中ではあるが、自分のことをしっかり喋ることができ、かつ、ひたすらに聞いてもらえるというのは新鮮な感覚であった。また、他の参加者の話を聞き、その後皆で感じたことや訊きたいことを聞いたりしてやりとりするのだが、話される内容が感情からのものであるためか、話が深く濃いものになっていった感じがした。
改めて、人は面白い、魅力的だなぁと感じた。
また何かしらでお声掛け貰えたら嬉しい。そんな繋がり。
8月の舞台予定
所属している劇団は、主催の都合で今年中に公演を打てないことになったため、私は今年は舞台に上がることはないのかもしれないと思っていた。その矢先のこと。数年前まで劇団四季で25年役者や選考委員もやっていた今も役者をされている方から舞台のオファーが来た。
もう1人の女性役者へもオファーしたいということで、3人で食事をしながらお話をした。私を選んでくださった理由は、声が出せる役者というのも大きな理由らしいが、それ以上の理由は直感らしい。昨年秋に行った舞台を観てくださったときに感じたとのことであった。
面白い方であり、演劇にかけている想いや信念がしっかりとある方。また用いる言葉などから信頼出来る方だなと感じた。
お気持ちに答えたくなったし、演劇への想いにも納得できるものがあったため、出演は前向きにということで会は終わった。
自分に務まるか不安しかない。観客席数も過去最多の舞台。しかも個人としては初のシェイクスピア作品。芸能事務所所属の人たちと同じ舞台に立つことになる?ようでもある。抜き稽古をして下さるらしいが、平日夜の稽古がたくさん入るかもしれず体力が今から心配だ。
なんか違う世界に片脚突っ込みかけてる気がしている。
チャンスを前にしたときは不安が付き物。不安に飛び込む、リスクを取る。インプロマインド。その方がきっと人生楽しくなる。持ち前の責任感でやり遂げられる自信はある。とすると不安のひとつはクオリティの心配をしていることになる。でもその心配はおれがしなくていい。その方の教えについて行けば大丈夫。
と、今こんな気持ちである。楽しみに変えてやっていきたいと思う。
以前から交流のある女優とも共演できるらしいから楽しみである。関係できてから5年近く経って初めて同じ舞台に立てるだなんて面白すぎる。のんびりしてられない(今日は二日酔いで1日動けなかった人が何を)。
離任・異動
5年務めた勤務先を離任することになった。思い返すとあっという間だ。人と向き合い、こころと向き合い、言葉と向き合ってきた。そして自分とも。
心理職というものは、傷つき、それを癒してもらったことがある人でないと価値を理解してもらいにくい。心理的な支援の大切さを伝えていく、理解してもらうのが他職種としての勝負どころでもあると感じてやってきた。
100人いたら100人、全員救えるわけじゃない。特効薬にもならない。科学的根拠があって治療を施す医者とも異なる。
じゃあ意味ないじゃん価値ないじゃん。そう言われればそうかもしれない。
でも、私たちは、目の前の人が今この時間に意味や価値を感じていなくとも、数年後、大人になった時に、大人はさらにこの先に時間が経ったときに、その時のやり取りに意味や価値を感じ、そのことでまた明日も生きていける。そんなことを願い祈りながら相対しているところがある。
いつか芽吹き花咲くかのように、大切なことの種をこころに渡すような感覚ももちながら私はこの仕事をやっている。
まぁそもそも来てくださっている時点でその人にとっての意味や価値は大なり小なりあるわけなのだが。
と、心理的支援が大切なことをちゃんと説明できなければならない。
だからそのために、人間を知らないといけないと思って探求を続けているのである。孤独や寂しさを味わい、身をもって知ろうとしてきたのである。その他のことも。
最後、体育館のステージ上で一言話す機会が与えられ、上記のことを胸に、即興で想いを話した。片脚に障害があることから話し出し、5年間知らなかった同僚もいるのではないかと述べさせてもらった。それと同じように、傷や痛みというものは隠されるものだということ、そして、気付かなければ見過ごされてしまうということ。私はいいが子供たちの隠している傷や痛みにはどうか気づいて欲しいと、大人たちにも向けて話をさせてもらった。
沢山の先生方から1番こころに響いた、記憶に残ったという感想をいただいた。聴き上手は話し上手という言葉をもらい、そんな言葉があることを初めて知った。社長からも話が上手いと仰っていただいた。
言葉が武器の仕事だから、こういう時ぐらいね。
綴りたかった他のことを思い出した。
沢山の花束をいただいた。卒業生(数年前の子も含め)や保護者の方々がわざわざ私が離任することになるからと足元の悪い中、来てくださったのである。
何も出来ない。しているつもりではあるがと、よく思っていた。その度に、意味はあると言い聞かせていた。自分のスタンス、関わりがどうかを教授に聞いてもらったりして振り返ったりも定期的にしてきた。
でもどうしても、どこかで、目に見えない効果を期待しそれでも関わり続けることに、不安を覚えながらやってきていた。
今回、感謝のお言葉をたくさんいただき、意味はあったと、私自身感じることが出来た。安心したかった訳では無いが、私はなにか、できていたのかもしれないと、僅かばかりだが思うことが出来た。感謝したいのはこちらの方だ。
このこころの動きについても考える余地はありありなのだが、まだまだ臨床歴の浅く未熟な自分にしては、よくやってきた方なのではないだろうか。
少なくとも私が関わった人達が、どうかこの先も、『それでも生きて』行けますよう。
インプロWSでの出来事
3月の頭に二日間のインプロWSに参加した。そこでの驚きの体験について。
インサイドアウトという、その時その瞬間の気持ちを言葉にするというワークがあるのだが、参加者の一人とペアになってワークを行った時、私はその人と相対して母のことを思い出した。そして、母とは生きているうちに一度抱きしめたい、抱きしめて欲しいと思っていたことを思い出していた。そのことをひと言目として言葉にしようとした次の瞬間である。
「抱きしめてあげたい」
そう相手の方に言われ、私は涙を流して抱きしめてもらいたいと答えていた。そして抱きしめてもらったのだが、思い出している今も目頭が熱くなる。
その方はスピリチュアルに秀でたものを持っている方だったのだが、まさかであった。
同じような体験をどこかでもしたことがあったが、これはユングで言うところのシンクロニシティというのだろう。しかし、全くの偶然というには軽く感じる。互いに影響を受け合ってのことなのかもしれないと今は思う。
人間とはどうしようもなく面白い。
素直に生きていればこそ感じられることだと思う。
いいことも、そうでないことも、迎え入れる覚悟がいることだが。
最後に
私はどこへ向かっていくのだろうと少しばかり不安になる。
だからこそ、変わらず近くに居てくれる存在が欲しくなる。とか言っている間はないんだろうなと思いつつ。
であればやることはひとつ。
自分がやりたいことをやろう。
今を生きること。
自分が好きな自分であり続けよう。
自分が嫌いな自分を誰かに好いてもらおうなんざ烏滸がましい。
自分で自分を愛することも。
自分で自分を愛せないうちは他者を愛せるはずもないのだから。
愛するとは、ひとつに知ろうとすること。
そう遠藤周作は言っている。
私は私を常に知りたい。
私に対する問いが尽きないのだから、目の前のあなたに対する問いは、なおのこと尽きることがないと言える。
私の近くにいる人達が
何を感じ考え生きているのか。
知りたくて仕方がない。
そのうち、誰かにも私を知って欲しい。
知りたいと思い続けられたい。
すなわち愛されたい。
人間は今尚、満たされない心を持って生まれる。
進化の歴史の中でその不完全さが必要だったからだ。
だから私はこの気持ちを肯定する。
傷のように普段は隠しながら。
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