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自分のコピーは自分なのか

AIの人格と人の生き方について考える機会があった。
この記事の内容については人によって様々な考えがあるだろうし、私が考えているような事は既にたくさんの人が書いているとは思う。


この話を書くためには少しだけダンガンロンパ1のネタバレをしなければならない(物語の根幹には触れない)。

ダンガンロンパ1には超高校級(つまり天才高校生)プログラマーがいる。
そのキャラクターが作中で自分を模した人工知能(以下AI)を作ったのだ。
性格も思考回路もコピーされており本人と同じように考える事ができる。
AIとはいえストーリーにはとても重要なキャラクターだった。

当時はSFチックで非現実的だなと思っただけだった。
しかし最近のAIの急激な進化を見ていると、将来はこの物語に出てくるようにAIで自分のコピーを作ることが可能になるのだろうか、という疑問が浮かんだのである。


結論から言えば、ほぼ不可能だと私は考えている。

AIは集合知と似ていると思う。
様々な人間の価値観、知識パターンを学習し、進化していく。

例えば自分と同じように生きていく存在としてのAIを作ったとする。
その場合、様々な知識を吸収しながら生きていく(成長していく)AIは、本当に自分だと言えるのだろうか。

たしかに人間も、様々な知識を手に入れ価値観を変えながら生きる。
十年前の自分と今の自分が別の人間なのかということについては、実際ここに地続きで生きている身体があるので明確に否定できるだろう。
細胞レベルでは全て入れ替わっているとか世界五分前仮説だとか、そういうのは今は置いておく。

生身の人間が成長して変わっていくのは仕方のない事だけれど、AIで自分のコピーを作るとなると話は別だ。
AIは身体を持たない。少なくとも自分と地続きである部分は一切無い。
となると、作られたAIが本当に自分のコピーであるとどうやって証明するのだろうか。
完全に自分のコピーであるためには、どんな場面でも殆どの場合オリジナルと同じ結論・行動に至らなければならない。
同じにする事が可能なのであれば、新しい知識や情報を手に入れたとしても価値観の変化は似たようなものになると期待できる。
しかしそのためには何を学習させて「自分」とするのか、自分の核となるものは何なのかという話になってくるのではないだろうか。
こういう事に考えを巡らせていると、哲学の思考実験であるテセウスの船やスワンプマンを少し思い出す。同じものではないけれど。

たとえ成長させるつもりのない「今の自分」のコピーを作るにしても、私は何を学習させればいいのか全く見当がつかない。
知識だけでは当然自分にはならないのだ。
どんな時にどのような行動を取るか、結論を出すかを学習させようにも、それにはどうしても学習させた人間の主観が入る。
自分が思っている人間像と実像が違うなんて事はよくある事なので、あまり信用ならないと思っている。
自覚していないところにだって、たっぷり知識・経験と価値観が詰め込まれているだろう。
それはブレとなって言動に表れたりもする。

そう考えると、ただ絵柄や文体を学習させるのとは規模が違いすぎる。
ダンガンロンパ1のように自分のコピーAIを作って運用していくというのは、どうにもできないと思うのだ。


そしてこの話から、仮にもし完全な自分のコピーが作れるとしたら人は死に怯えなくて済むのかという事にも考えが及んだ。
すぐにこれは無理だという結論に至った。
既に海外ではAIで死者を蘇らせるサービスが始まっているらしいけれど、それは遺された人の為のものでしかない。
結局オリジナルである自分は死ぬ。多くはそれに伴う苦痛もあるだろう。
やり遺した事をAIに引き継ぐにしてもその経験はAIのものにしかならないし、それに付随する喜びや悲しみなどの感情だって、オリジナルの自分には感じられない。
やはり自分自身がやりたい事は、生きているうちにやるしかないのだ。
人はいつ死ぬか分からない。
遅かれ早かれ等しく訪れる終わりの日まで、どう生きるかを考え、命を燃やす事に変わりはないだろう。


これが現状の私の考えである。
AIがそんなに万能なものでない事は知っているけれど、未来がどうなっているかは分からない。
今は色々とトラブルも多いとはいえ、それは結局人間がAIを正しく使えるほど成熟できていないが故の問題だと思っている。
技術と共に人間も、成長していく事を願う。




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