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『思いがけず利他』中島岳志 著

カフェ店主おすすめの一冊と、個人的に気に入っているツボをご紹介します。

今回取り上げるのは、『思いがけず利他』(中島岳志 著、ミシマ社)。
コロナ禍や戦禍で利他への関心が高まる昨今、「本当の利他的行為とは」について考えさせられる一冊です。
「利他」につきまとう「うさん臭さ」「偽善」「押しつけがましさ」、自分の利益を想定した「利己的な利他行為」などに触れつつ、様々な視点から「利他の本質」が紐解かれていきます。

わたしのツボは、なんといっても落語『文七元結ぶんしちもっとい』を例に挙げて解説されていくところ。
『文七元結』は、博打と酒で借金を重ねたどん底の男が、たまたま出会った身投げ寸前の若者を見捨てることができずに、最後に借りたお金をその若者に与えてしまい絶体絶命、しかし回りまわって大団円となる人情噺です。
模範的でも善人でもない自堕落な男が、何の打算もなく見ず知らずの一人の青年を身を削って助けてしまう。
それはいったい何故なのか、という考察から利他が語られていきます。

そもそも人間とは「どうしようもない」生き物で、業の深い存在です。
博打をして「しまう」、酒を飲み過ぎて「しまう」、借金をして「しまう」、家族を不幸にして「しまう」、なのに人助けをして「しまう」。
不可抗力に押し流されるわれら人間は本当に愚か。
その自らの愚かさを認識した人間こそが、他者に対して親身になることができる。
そして、情けなくて弱い存在である人間には、どうにも力が及ばない限界というものがある。

自力の限りを尽くした末のどうにもならない己の無力さ、愚かさをつくづく知った時、はじめて人知の及ばない他力が訪れ、その他力に押されて行う行為が利他である、というのです。
何の見返りも求めず、予測も計算もせず、ただの器となって行動してしまう利他的行為、自らの意思を超えた「思いがけなさ」が、利他の本質だと教えてくれます。

先週、ちょうどある落語会に行き、あらためて落語の素晴らしさを感じたばかりですが、毎年大晦日には『芝浜』を聞くと決めているわたしは、その『芝浜』もチラッと本書に登場してそれもまた嬉しくなりました。
落語の他にも、親鸞やヒンディー語、認知症、民芸や料理、哲学などの視点からも「利他」について語られています。

さらにもう一つのツボとしてわたしが挙げたいのは、利他の時制を通して「未来によって今を生きる」というテーマが語られているところ。
自らの意思を超えた「思いがけなさ」が利他の本質であるならば、行為をなした時点ではそれが利他なのか否かはわからず、その行為の受け手が未来で「利他的なもの」と認識することではじめて「利他」となる、とのこと。

自分の口から出た何気ない一言が、受け手の人生を大きく進展させ、才能を開花させることに繋がることがあります。その一言が発せられた瞬間には、その言葉がいかなる価値を持つのかはわかりません。しかし、「今」という偶然性は、常に未来の可能性へと投企されます。
 受け手が何十年も経ってから、自己の歩みと「あの時の一言」を因果の物語として捉えた時、過去となった「今」に意味が与えられます。「あの時の一言」は未来から「利他的なもの」として認識され、私は利他の主体へと押し上げられます。
 だから九鬼(注:九鬼周造)は言うのです。「現在的なる偶然性の生産的意味」は、未来から倒逆的にしか理解できない、と。
 私は「今」の意味を未来から贈与されるのです。そのためには、今を精一杯生きなければなりません。偶然の邂逅に驚き、その偶然を受け止め、未来に投企していく。その無限の連続性が、私たちが生きていることそのものであり、世界の有機的な連環を生み出す起点なのです。

中島岳志 著『思いがけず利他』より


「思いがけず」この本を紹介して「しまった」のもまた、利他的行為になる可能性があるのかも?

「自分が今やっていることに、はたして意味があるのか」と、今を生きることや自分の価値にむなしさを感じて悩んでしまいそうな梅雨の時期。
雨音を聴きながら、利他について考えてみるのはいかがでしょうか。

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