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20年・10年のあゆみを振り返る--カフェバグダッド×比呂啓対談②

カ 1997年、私は東京にいて、新聞記者をしていました。1991年に新聞社に就職して、1997年に国際報道を担当する外報部という部署に異動しました。

比呂 それは何歳の時ですか。

カ 29歳ですね。

比呂 その前は、別の部署。

カ 地方ですね、金沢とか、地震があった能登半島の珠洲、輪島とかで働いていました。

比呂 そういう地方に行ってから外報部に行く。

カ それが、だいたい新聞社のパターンです。いわゆる「海外特派員」を目指していたので、ようやく自分の夢に届くところにたどり着いて、 東京で国際報道関連の取材を始めるようになったという感じでした。国際報道の中でも、中東地域を担当するようになったので、そもそもで言えば、その辺がカフェバグダッドの出発点ともいえるかも知れませんね。

カ それから3年ぐらい、東京に来日する政治家などの取材をしていました。だから、写真も残っているわけですね。

比呂 じゃあ、プロジェクターで写真をみせていきましょうか。いよいよ、指導者の写真ですね。

カ 例えば、これは、インドネシアのアミン・ライス氏、のちの国会議長ですね。

アミン・ライス氏とのインタビュー

カ これはですね、パレスチナ自治政府の 中東和平交渉担当者のサーエブ・エレカトという人物。すでに亡くなられたんですけどね、交渉の重要人物で、CNNテレビにもしょっちゅう出ていました。

比呂 この人は覚えてます。

カ もう、口から生まれてきたような人。弁が立つ人でしたね。

サーエブ・エレカト氏と

比呂 これはいつ頃?

カ カイロから戻った後ですね。あっ、だと、「初期」ではないですね。まあでも、外報部に行ったばかりの頃も、こんな感じで、国内で来日要人の取材をしてしました。ちなみにインタビューをしたのは、ホテル・ニューオータニのスイートルームですね。このクラスの要人は、そういうところに滞在していた。

カ この写真は、エジプトの超スーパースターで、ムハンマド・ムニールという歌手です。1998年に来日しました。エジプト映画「炎のアンダルシア」の日本公開に合わせて。映画で重要な役どころの吟遊詩人を演じていたんですね。この前、渋谷で開かれた「イスラム映画祭」で久しぶりに上映されました。

比呂 ああ、やってましたね。

カ その「炎のアンダルシア」の公開の時に、うん、日本に来たわけですよ。で、インタビューしたんです。右は、師岡カリーマさん。エジプト人の父と日本人の母を持つ今も日本で活躍されている文筆家の方です。アラビア語の通訳をしてもらいました。

ムハンマド・ムニール氏と

比呂 NHKテレビの「アラビア語講座」にも出てましたよね。

カ そうですね。この師岡さん、実は当時、私のアラビア語の先生だったんですね。個人レッスンを受けていました。そのつながりで、この時も通訳をお願いしたんですね。これが1998年。で、ヒロさんは、その頃はどんなことを。

比呂 私は私はアメリカに留学したのは1993年で、その後、2003年までいました。まず、ニューヨーク大学で映画を勉強しまして、卒業してそのまま向こうで6年間、 滞在して、映像プロダクションに入って、いろいろな仕事をしてたいたんですね。その頃から、こういったもの(指導者の肖像画)を集めてました。
 集め始めたのは、1992年に中国からロシアへ旅して、さらにシベリア鉄道に乗った時。あの、毛沢東の肖像画を買ってからですね。どんどん、どんどん集めるようになりました。これは北京の毛沢東記念堂のギフトショップで買いました。

比呂さんが最初に入手した毛沢東の肖像画(右)

カ これがはじめですかね。

比呂 これが1番初めですね。こういう政治的アイコンは元々そんな嫌いじゃなかったので、その前から面白がってはいたんですよ。例えば、ブッシュ大統領夫妻のハガキとか、買ったりしていたんです。働いていた映像プロダクションのボスのピーターも知っていたので、97年か98年あたりに、そのボスがバングラディッシュでドキュメンタリー作りを撮影しに行って、 1ヶ月ぐらい行ってたんですよ。で、バングラデシュで、建国の父の写真だとかを買ってきてくれた。

比呂 そんなんで、バングラデシュに関心を持っていたので、「パキスタンは、なんて悪いやつらなんだ」とか思っていたら、何の因果か、今はパキスタンに深く関わるようになっちゃったんですけどね。そんなこんなで、コレクションが増えていった。


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