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一年に一度だけ

8月6日8月9日

世界史上、類を見ない大惨事を刻んだ二つの日付の重みは、どれほど時を重ねようと、なお変わることはありません。


けれども以前、広島出身の友人から聞いたのは、8月6日が5日や7日と区別もされず、周囲が8時15分になってもまるで無頓着なのに驚いた、という話でした。
広島で暮らしていた頃は、原爆投下の時刻にはサイレンが鳴り、皆で黙祷していたのに、と。


私も過去に一度だけ、中学生の頃に広島でこの日を迎え、平和記念公園で開催される〈広島平和記念式典〉で、友人の言う一分間の黙祷にも参加しました。

その朝も快晴でとても暑い日でしたが、少なくとも私の周囲で、誰一人そのことに不満を唱える人はいませんでした。
それは、前日の夕方、ある病院に長期療養中の老婦人を訪ねていたからかもしれません。


その方は生まれてから広島を離れたことがなく、78年前の8月6日もその街にいました。

当時14歳で、午前8時過ぎに、学校単位での勤労奉仕のため家を出、路上で被爆。
左側から熱線を浴びたため、左半身に酷い火傷を負い、ケロイドが残りました。

けれどそれよりも辛かったのは、両親、仲良しの姉、可愛い弟、一緒に住んでいたいとこなど、身内8人を一度に失い、自分一人が生き残ったことです。

放射能の影響で体調は常に優れず、手術と入退院を繰り返し、新たな家族を持つことも叶いませんでした。


私の人生は苦しみばかりでしたよ

ベッドの上でその方はそうつぶやきました。

なぜ人がそのような経験をしなければならないのか、困惑や憤りでいっぱいになった私は、今ならば決して出来ないストレートな質問を、その方に投げかけました。

「アメリカや核を憎んでいますか?」

同行した皆が息をつめて見守る中、その方は先程と変わらぬ静かな口調で答えました。

私はもう、誰にもこんな思いはしてほしくないと思うだけです

それ以上の面会はその方のお身体に障ることもあり、私たちはそれからほどなくして病室を後にしました。


それは、私が被爆者の方から直接に話を聞いた唯一の体験です。
病床でも語り部を続けるその方に会う機会が訪れた時、私は意気込んでその一行に加わりました。

けれどその方が淡々とご自分の体験談や思いを語る態度に、私はやや肩透かしを食ったような気分でした。
まだ中学生という幼さゆえ、もっとわかりやすい感情の発露を期待し、抑制された語りの中に込められた多くのものを掴みきれなかったのです。


それでも、その方が回想するのも辛い過去を克明に語ってくださったこと、たった一発の爆弾で今なお後遺症に苦しめられていることを肌で感じただけに、「原爆はなかった」「被害が誇張され過ぎている」「いい加減もういいだろう」というような言説に触れる度、怒りを通り越し愕然としてしまいます。
無知がもたらす加害性を痛感しつつ。


そして、今日10時57分に、私のもとにこんなメッセージが届きました。

8月9日11時2分の5分前となりました。

長崎に原子爆弾が投下されてから、78年を迎えようとしています。

11時2分になりましたら、1分間の黙祷をお願いいたします。

これは〈8.9MokutouReminder〉というラインアカウントで、友達登録しておくと、年に一度、長崎の原爆投下時刻11時2分の5分前に、案内のメッセージが届くというものです。

長崎在住のクリエイターが立ち上げた平和活動の一環で、去年始まったばかりのプロジェクトのため、まだ現段階で登録者は二千人にも満ちません。

けれど、広島出身の友人が言うように、6日と9日に意識を向ける人が日本国内でもそう多くない中、こんな試みならば心から応援したい気分です。
何事であれ、まず心を向けることから全ては始まるからです。


だから、“一年に一度、黙祷したからって何になる?”そんなシニシズムには背を向けて、たとえこの日、この時刻が過ぎてしまっていても、ほんのわずかな時間、黙祷を捧げてくださったなら。

もしそんな方がいらしたら、私が費やしたささやかな時間と言葉も、甲斐があったと、心から嬉しく感じてやみません。

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