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ウールのコートから喫茶店のモーニングの起源を知る

目の前のハンガーラックに、白がたっぷりと混ざった柔らかな色合いのグレーのコートがかかっています。
去年の暮れにこのお店で見かけてから、ずっと欲しいと思っていたコートです。
もう何枚もアウターは持っているし、と自制しながら、もしもセール期間になってもお店に残っていたら購入しよう、とひそかに決めていました。

色も形も美しく、着心地が良く、手触りも最高。
きっと私を待っていてくれたに違いない、くらいの気持ちで、そのコートをしっかり抱えてレジへと向かいました。


会計と包装のために忙しく手を動かしながら、店員さんがふと私に向かって微笑みます。

「こちら、とっても素敵ですよね。生地も日本製ですし、長く着ていただける良いお品だと思います」

「え?この生地、ウールですよね?」

驚いて尋ねる私に、店員さんが包みかけていたコートを取り出し、英字とイラスト入りの黒いラベルを見せてくれました。

「ほら、ここに〈一宮ウール〉って。一宮で織られたウール生地を使っている印です」

私にとってのウールの産地は、イタリアやイギリス、アイルランドと、ヨーロッパのイメージで、国内でウールを生産している、と聞いてもうまく実感がつかめません。
おまけに、一宮とは。かすかに耳にしたことがある程度で、ほとんど知らない地名です。

あまりの思いがけなさに頭の中は疑問でいっぱいのまま、急いで帰宅してさっそく調査を開始しました。


そして、即座に得たのが、“愛知県一宮市を中心とする尾州は日本を代表する世界三大毛織物産地である”という解答です。
しかもその内情を深追いしていくと、なんとも興味を引く話に満ちています。

尾州の織物が長い歴史を持ち、今でも国内の毛織物の8割を生産していること。
紡績、撚糸、染色、製織、編立、整理加工と、必要なプロセス全てが地域内でまかなえること。そのため地域全体が巨大な工場や工房と呼ばれていること。
織工場はみんな同じ形のぎざぎざ屋根で、必ず北を向いて建っていること。
そしてさらに、その織工場こそが、喫茶店のモーニング誕生のきっかけを作ったこと。

午前中に喫茶店を訪れると、飲みものと共にテーブルにパンや卵、サラダが並べられる、言わずと知れたあのモーニングサービスです。名古屋の喫茶店のモーニングがことさら盛りだくさんなのは有名ですが、そのルーツまでが、そこにあるというのです。

これはあまりに面白そう。ということで、いさぎよく横道にそれ、今度はそちらの調査に乗り出しました。


調べてみてわかったのが、“喫茶店のモーニング一宮発祥説”にはふたつのバージョンがあり、そのとちらも織工場の機屋さんが中心になっている、ということです。

ひとつめの説は、機屋さんが商談の際、機械音の響く社内よりはと、お客さんが来る度に近所の喫茶店に案内していた。喫茶店はそのお礼として、飲み物に無料で軽食をつけるサービスを始め、これが次第にモーニングとして広まった、というものです。

ふたつめはもっとアットホームで、家族経営の機屋さんが登場します。
家族で役割分担しながら働く小規模経営の機屋さんには、食事、とりわけ朝食を作る時間がない。そのため休憩がてら立ち寄った喫茶店で、何か食べるものを出してくれるように頼んだ。これがモーニングの始まりである、という説です。


実は他にも、豊橋市、広島市と、モーニング発祥地には諸説があります。

けれど、一宮の毛織物業者と喫茶店の物語は、とりわけ面白く、また好ましく感じられます。
地域のお店が、織物に携わる人たちと地場産業を支えるために提供した“現場めし”が起源だった、というのは何とも粋で格好の良いエピソードですから。

こんな背景を知ってしまえば、これから喫茶店を訪れてモーニングを前にした際、さらに美味しく楽しめるというものです。


私の周りも、喫茶店にはなかなか行かない、ファストフードのほうが気楽でいい、という人は多いのです。
それもわかるし、チェーン店のカフェの安定感も良いのですが、喫茶店独特の雰囲気とたたずまいもまた捨てがたいもの。
それぞれに異なる個性を持ち、歴史あるお店やレトロな純喫茶など、訪れること自体が素晴らしい体験そのもののような店舗もたくさんあります。

私も、すっかりお気に入りになった新しいコートを羽織り、まずは今度の週末、気になる近所のお店のモーニングに出かけたいと思っています。

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