俳句について考える所

以下を読みました。

すると、私は幾つか疑問点が湧いた訳です。
結論となる所感:詠みたい様に詠ませれば?

①三尺童子を相手にしてうなづかせてみせる平易さのところまで表現の工夫を繰り返す
三尺の童子にみせても大意がわかるような表現を用いたほうがよいと思う(三尺とは今の単位に換算すると、約90.9cmです)

以下は飛鳥時代の短歌で小倉百人一首にも収録されている、天智天皇の短歌です。
秋の田の刈穂の庵の苫を粗み我が衣手は露に濡れつつ

又、松尾芭蕉の名句とされている以下もそうです。
五月雨の降り残してや光堂

芭蕉の句の「五月雨」は、実は現代でいう所の梅雨の時期です。
現代の身長1メートル未満の子供にこの短歌や俳句を見せたとして、
「大意が分かるのか?」って話なんですよ。

かといってその基準で短歌や俳句を詠むと、実に味わいが無い歌や句に
なり易いんですよね。
それを杓子定規に解釈するのはどうなの?って事が言いたい訳です。
現代っ子は身体の成長が早いので、1メートルなんてすぐ超えますよ。

②現代の不安な社会状態に直面しているわれわれ日本人は、日本人らしく自然を愛するという情熱をもやしつづけなければならないにもかかわらず、むしろ幻惑されてしまって一時的享楽を追い、自然より遠ざかろうと努力しているかにみえる。
それでは自然とは何をさすのか。山川草木だけではない。われわれの周囲そのままが自然と見るのである。
かようにありのままの世界を愛すると気分はひろびろする。

自然という単語を辞書で調べました。
山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。
人間を含めての天地間の万物。
人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。
そのものに本来備わっている性質。天性。本性。

  1. 哲学で、

    1. ㋐他の力に依存せず、自らの内に生成・変化・消滅の原理を有するもの。

    2. ㋑精神とは区別された物質的世界。もしくは自由を原理とする本体の世界に対し、因果的必然的法則の下にある現象的世界。経験の対象となる一切の現象。

こんなに沢山の意味があるのです。
特に2や4に目を向けた場合、現代で言えば学校の中、会社の中に存在しているものであれ、「自然」に含まれている訳です。
又、4の意味では、詠み手の心に嘘をついてまで「三尺童子を相手にしてうなづかせてみせる平易さ」を貫く事は、詠み手にとってそれは自然なのか?って事なんですよね。

③対象の生命をつかみとって描写していることが、対象そのままの形相と比較して歪があろうとも欠けておろうとも、私は写生に外ならないのだと考えたい。
写生とはこのように大切な芸術活動である。
片々たる単なる撮影家や報道班のような仕事と同等視されて甘んじてはならないと思うのである。

長々書かれてある事の末尾は、この様な閉めになっています。
そこまでの文章の内容と一目矛盾してる所がある様に見えますが、実はそうではないと私は思っています。

又、時代は変わっており、今は令和です。
時代の移り変わりの速度が、昔と違うんですよね。

心構えとしては確かに大切な面を色々説いています。
ですが、これを絶対視するのも又、筆者の意図とは違うと思うのです。

「唯物弁証法」という「ものの見方・考え方」は、これ自体は西洋哲学です。カール・マルクスが提唱したのですから。
ただ、この考え方を用いて俳句を読み解くと多面的に、立体的に見えてくるのです。

西洋哲学と日本古来の文化の良い所取りの組み合わせは、決して不可能ではないと私は思っております。

「良きものは後世へ残し、変えると更に良くなるものは良くなる様に変える」
こうしていかないと、日本古来の文化でさえ廃れていくと、私は思う訳です。

だからこそ、「詠みたい様に詠ませてやれば?」と私は思った訳です。
特に現代に焦点を当てているのであれば、「現代風に詠ませれば?」と
思う訳です。

みなさんはどの様に思われますか?


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