静かな生活

可能ならば、静かで落ち着いた生活をしたいものだと私は思います。争いごとがなく、淡々と過ぎていく時の中で焦る必要もなく、ささやかな豊かさに喜び、呼吸が乱れることのないような生活に浸っていたいです。

静かな生活といっても、例えば部屋の中に何もなく、音もせず、暦もないような、まっさらとした空間で暮らすことを望むわけではありません。意識せずとも様々な音に満ちたこの世界にあって、無音で生活しようものならば、私はむしろ騒々しい心の音のみを聴き続けることになってしまうのではないかと恐ろしく感じます。鼓膜を破るような轟音も、恐ろしい孤独の沈黙もないような、ほどよく静かな生活を送りたいのです。

私は夜にこの文章を書いているのですが、現在の私の周囲には特に騒音はありません。昔、家の側で男性の雄叫びが深夜に頻繁に聞こえて、恐怖した経験がありますが、現在ではそのようなことはなくなっています。しかし、この静かな部屋の中で、世界のことに耳を澄ませると、争いばかりが起きていることを報道などで知ることができ、それを聞いていると、今、平和な生活を送れている私もその争いの例外ではないのだと語りかけてくるように感じます。そうは言っても、だからといって私に何かができるわけではありません。一体、この世界の争いごとに対して私に何ができるでしょうか。その問題に関心を持って、心に刻み込もうとしたところで、私には何もその解決に役立つような策がありません。遠い争いごとの問題に向き合おうとすると、心に憤りを覚えて、むしろ今ある平安が乱されていってしまいかねません。静かな生活を求めれば求めるほど、それがいかに脆弱で儚いかを知るように思います。

そして、私の周囲はそうでなくとも、昨今は市民の間における騒音問題が絶えることがないようです。これから私もそういったことを経験するのだろうかと思いを巡らせつつも、今のところは縁のないことなので、そういった問題が多発しているということに驚くとともに、騒音とは何だろう───人にとって、私にとって、どういったものだろうと考えてみたくなりました。

最近だと、保育園や幼稚園が近所にある家庭から、園ではしゃぐ子どもたちの甲高い声が昼間に大きく響いて不快であると、それらの施設に直接、苦情が訴えられるということがあるらしいです。かつて、私も狭い道を挟んだ向かい側に保育園が面しているところに住んでいたことがありますが、確かに、例えば夏場になると子供たちは、保育園の敷地内とはいえ外で水浴びをするので、その際に、もし近くにいれば、耳をふさぎたくなるような甲高い声が響くことが多くなります。私は苦情を訴えようと考えたことはありませんでしたが、幼く、可愛らしい子供たちは、絶叫と称してもよい声を上げるので、それを苦手に感じる方もいるのかも知れません。深夜に働き、昼に眠る人もいるなかで、それはなおさら難しい問題かも知れません。

また、日常的に部屋の中で大音量の音楽を流し続けて、近隣住民との揉め事からやがて殺人事件にまで発展した話も知りました。私も以前、小さな部屋を借りて住んでいた時期がありましたが、壁一枚隔てれば、他人が生活しているところで自分の生活音がやけに響くことから、私自身がその音に神経質になりすぎて、精神を病んでしまったことがあります。些細な生活音も、それが連続すれば、人によっては大きな苦痛になるに違いありません。ましてや部屋全体に響き渡る音楽は、それを流している人にとっては楽しいものかも知れませんが、他の人にとっては騒音以外の何物でもなく、当人が人の心の声を聞こえなくなるような無意識の暴力に繋がるのだとわかります。

これら以外にも様々な騒音問題の情報を通して、人は静かな生活を欲しているからこそ争いが絶えないのかと私は感じ入ります。静かな生活を求めるからこそ争いは望ましくなく、何より大事に思っているからこそ、逆に大きな問題にまで発展してしまうのではないかと思います。

私が求める静かな生活も利己的な我執の願いにすぎず、それによって周囲の音に感情を燃え上がらせてしまうとしたら、それは皮肉なことでしかありません。争いを求めていないということが、騒音のある生活に対する耐性を失わせるとしたら、静かな生活とは、とても贅沢なことだと思えます。

争いのなかにあっても、一瞬でも小鳥のさえずりを聞くことができたなら、それもまた静かな生活の一つではないかと私は想像しています。静かな生活に騒音を聞くことと、騒音が響くなかで小さな音を聞くことの間には、私の心が何より場を占めているようです。今ある、限りある静かな生活をどのように生きればよいのか、それらの間で、ふと私は心にざわめきを覚えました。