政党政治

私がよく歩く道に小さな看板があります。その道は人が通る姿があまり見られない場所なのですが、他に目につくようなものがなく、人も少ない場所だからこそ、その看板は私には際立っているように感じられます。

看板には、政治家の肖像写真と名前が描かれています。時期によって、それは新しく刷新されるものなのですが、どきどき日焼けして、色が落ちた状態の肖像が取り残されていることがあり、それを見るときに私は時の移ろいを感じます。

政治にまつわる看板は気をつけて歩いてみると、いたるところで見かけることができます。種類によって看板のつくりは様々ですが、例えば政党の政策案の一部を箇条書きにした標語が掲げられている場合もあり、通り過ぎていく私はそれを横目で見ながら、自分の考えと照らし合わせて、吟味などすることもあります。ですが、そのような思考は看板が視界から消えゆくとともに同じく流れていくものでしかなく、結論を見出だすことのないままに霧散してしまいます。


私は政治との向き合い方がよくわからず、自分以外の人がどのように向き合っているのだろうと気になっています。政治家の方と私はどのような距離感で対すれば良いかに葛藤を覚えることがあるのです。

普段は写真や動画などを通してでしか、見ることのできない政治家の方も、選挙の時期には目の前にすることが多くなります。私の居住している地区にも、その時期には選挙の候補者が乗った街宣車がやってきて、拡声器で自らの政策案や政治に懸ける意気込みなどについて語りながら、支持を訴える声が響きます。ちょうど散歩していた際に、私はそのような街宣車と遭遇し、看板でお顔を見たことのある候補者の方が窓から手を振りながら、拡声器で挨拶の声をかけてくれたことを覚えています。そのようなことをしてくれた方には率直に好感を抱きました。意地悪な見方をすれば、そのように思わせる政治性でしかないと言えるかも知れませんが、そのときに私の心が嬉しくなったことは事実です。

これまで私には特に支持政党、政治家がありませんでした。理由は特になく、例えば、どこかの候補者の方が議会に進出することが決定した際に、当選に喜ぶ姿を映像で見ることがありますが、その歓喜の万歳にいまいち乗りきれないような思いを抱いてしまうのです。どのような政党、政治家であっても、そのように感じてしまいます。候補者や支持者は自分の訴えが直接可能な場所に出ることになり、嬉しいかも知れませんが、政治とは単に勝敗を競うものではないと思うので、そういったところに政治家の方との溝を感じてしまいます。

しかし一方で、政治家の方の動向を追うと、厳しい戦いにありながらも、それだけではない政治家の方々の関係を垣間見ることがあり、政治の結果よりも、そのことに私は関心があります。

選挙に当選した、ある候補者のSNSアカウントに、選挙に勝利したのは嬉しいが、政敵の候補者が去って、寂しいとの趣旨の言葉をその支持者と思われる方が寄せていて、候補者はそれに対して、共感するような反応を示していたのを私は印象深く覚えています。私はその候補者同士の激しい対立を知っていて、ときに品のない言葉遣いで争っていた人が急に別の顔を見せたことに驚きました。それはある意味で勝者の余裕というか、そういった見方もあると思うのですが、それとは異なる感動を私は覚えました。

民主的な政党政治の時代においては、政党政治家は自分の党が───その信条が守られて、喜ぶこともありますが、それと同時に個人としては敗退する政敵に対しても、どこか共感の念を抱いているものではないでしょうか。それはつまり勝った者が勝ち誇るのではなく、負けた者の思いも汲み取っていくということであります。政党政治において重要な政治性とは、政党の勝利や相手を微塵にすることではなく、いかに対立候補を吸収するかにあると考えられます。多くの票を集めるということは限られた数の中から集めるということなので、多くの票を集めたければ、必然的に別の人物への支持を自分たちに向けさせる必要があります。そして他から集めるためには政敵を全面的に否認するのではなく、相手の意義を失くすように吸収することにあるのではないでしょうか。私は、政党政治家の間の対決においては相手を認めつつも政争に敗退してはならない───政敵に共鳴しつつも勝たなければならないという悲愴な感情の遣り取りが表舞台からは見えないところで行われているのだと思っています。

人が何らかの政党に属し、何者かの支持をすることによって、個人としての尊厳が損なわれ、また見えなくなると考える方がいますが、何らかの支持や訴えとは、それ自体が一つの暴力を孕んでいるということは否めません。また、支持政党や政治家のいない私も決して、それから離れているのではなく、政治の恩恵に与っている場合があります。その同じときに、確かに損なわれる存在もいて、そういった人にとって、私という存在はどのようなものだろうと思います。こういった自分も何らかの党派にあると想像できます。私は他の誰かの思いを汲み取ってきただろうかと考えさせられます。

私には政治との関わりは日常のものだからこそ、とても難しく感じられます。政治には思想的な対決や様々な論争がありますが、それがどのような目的に基づいているのか、果たして、その手段や方法が正しいのかがわからなくなります。そのために結局、自分が何を求めているのかも見失い、現状に迎合してしまっているきらいが私にはあります。

ですが、これまで政治家やその方々に接した経験を振り返りながら、そういった私が求めているものは何かと考えると、それはきっと、政党政治の対立構図に組み込まれながらも、それに留まることのない感情───抑圧や悲嘆にありながらも、そうであるからこそ輝く人と人との繋がりなのだと思い至った次第です。政治によって、損なわれた人の思いを内省しながら、政治に向き合っていきたいと私は思いを強めています。