見出し画像

精神科医によるハラスメント、思いだしながら

CATCH22 ということばがあります。アメリカ空軍の、パイロットに対する軍務規則の条項名です。自分が精神障害にかかっていると申告して除隊を申し出ると、「自分で自分のことを精神障害と判断できるということは精神障害ではない」と判断されて除隊を認めてもらえないのだそうです。本当かどうかはわかりません。ただそういう長編小説があの国にあって、これがベストセラーになって、今では日常フレーズとして使われているのです。「I'm in a catch-22 situation.」(四面楚歌だ)みたいに。

私はそういう目に遭ったことがあります。先日のぶんで少し触れたことですが、精神状態がどんどん追い詰められていくのに耐えかねて、ある町医者を訪ねました。心療内科です。そこでまさに CATCH-22 なことを言われました。彼はある病院の副院長(心療内科あり)も務めていて、地元国立医大でも教えているような口ぶりでした。そして私を斬り捨てにかかりました。普段から教え子たちには閉口していたのでしょうか、私に向かって、憂さ晴らしの念もあったのか、説得口調で、しかしはっきりと嘲り、斬り捨てにかかったのでした。

今でもそのときのやりとりをここに綴る気にはなれません。いわゆる世間様の、ごくまっとうなご見解ではありました。

その日の夜、私は自宅の階段で泣き崩れました。私の突然の異常行動に、母までもがやがてつられて泣き出しました。

それから一年、再起をかけて自分なりに奮闘…とはまわりの目には映っていなかったでしょうが、主観的には奮闘しました。CATCH-22体験の次の年、私が生まれたときからずっといっしょだった祖父が亡くなりました。その一か月前に、もうひとり祖父を失くしています。母方の祖父です。高校にあがって一か月後に会ったのを最後に絶縁状態だったひとです。この祖父が亡くなった知らせは、家のほうの祖父にも少なからずショックだったようです。一か月後に彼も亡くなりました。ちなみに私はどちらの葬式にも出席しませんでした。何かが終わって、何かがやってくるのを感じたとだけ述べておきます。

やってきたのは、狂気でした。私は12月生まれです。自分の誕生日に日付が変わる夜、今まで味わったことのない狂った夢をみました。子どもの時、風邪をひいて熱が引き始める直前の、一番苦しい時に見る夢の、もっともっと苦しい夢でした。昔の宇宙映画で、地球より遥かはなれた惑星までひとりで旅してきた乗員が、さらに深淵の闇に、光の濁流とともに飲み込まれていくシーンがありました。そして乗員は宇宙ヘルメットのなかで狂っていくのです。あの光の濁流は猛スピードでした。私が味わったものは、もっと重苦しくて、ゆっくりした恐怖の濁流でした。

それから夢の中で、黒板にチョークで描いたような素朴な人形(ひとがた)が無数に表れて、それぞれがアニメーションで動き出しました。自分の人格が、のっぺらぼうの人形(ひとがた)に無数に分裂して、みな勝手に黒板の上を左右に動きまわるのです。

こうしてことばにすると、いったいこれのどこが恐怖なのかわからないと思いますが、私にとっては生まれてより見たことも味わったこともない、サイケデリックな恐怖でした。

それ以降、眠るのが怖くなりました。眠ったらまたあの夢を味わうのかと思うと、とても眠れません。それで両親のふとんのあいだに、私のふとんを敷いてそこで就眠する日々が続きました。眠っていて私はいつもうわごとを言っていたようです。母から「あんたは寝てて『ちがう、ちがう!』と声をあげるので眠れない」と後で言われました。覚えはなかったけれど、ああそうだろうなとぼんやり思いました。(今でも私はよく「ちがう、そうじゃない!」と独りでいきり立ちます。今年に入ってからはそれがタラちゃんの声で再生されます。「ちがいますぅ」と)

恐怖と放心状態に耐えられず、土曜日夕に、母に連れられて、ある町医者を訪れました。先ほど触れたところとは違います。家からちょうど正反対の方角にありました。母方の祖父とは仲良しで、彼を毎日診察してくださった方でした。といってもそれは母からの伝聞で知ったことで、私はそれまで会ったこともない方です。そこならいいだろうと言われて、診察を受けました。

その後毎週土曜夕に診てもらいましたが、ただ雑談をするばかりで、最後に血圧を測って終わりでした。彼は威圧的なところのない老医師でしたが、何もしてくれない方でした。ああ、そういえばカウンセラーの方(女性でした)が一回来てくださって、簡単な面談と、木の絵を描いてみてという、よくある心理テストを受けたのを覚えています。後でその木の絵を私につきつけながら、老医師が私の心理状態を分析してくれました。いずれももっともな分析でしたが、私の心はさらに辛いものとなりました。

年が変わって3月からだったと思います。自動車学校に私は通い出しました。家にじっとしていると怖くてたまらないので、とにかく毎日どこかに出かけて何かをしていないといけないと、そんな風に感じたのです。自動車教習所通いが始まりました。入校式があって、オリエンテーションがあって、のんびりした雰囲気のなか、授業が始まりました。私は小学校に戻ってきたような気がして、少しだけ心が和みました。初日のオリエンテーションの後、簡単な心理テストを受講生たちは受けました。しばらくして採点結果が渡されました。私は「精神的に少々不安定なところがある」という文に〇がうたれていました。これは少々驚きでした。ごく自然に、普通に、順当にマークシートに印をうっていったと思っていたからです。

結局、免許は取れずに終わりました。運転実技がいくらやってもうまくならないのです。坂道を下りながら踏切手前で一時停止するのが、何度やってもできなくて教官どのに苦笑いされたり。そうそう学校構内で車を走らせる最初のとき、私がいきなりギアチェンジしてアクセルを踏むのに教官が驚いてブレーキをかけたことがあります。「ギアチェンジは教えていないのにどうしていきなりそんなことをするの?」と窘められました。またそれとは反対に、アクセルを踏み込むべきところを、ブレーキをやたら踏みまくる私の様に教官が呆れて「今ここで走らせているひとたちのなかで、あなたが一番のろいよ」と言われて、気がふさいでしまったこともあります。構外での路上講習に進むにあたって、試験がありました。構内の道路をちゃんと走らせられるかどうか、横に教官がいて、減点法で採点するのですが、私はというと途中で教官が「はいそこまで」といきなり切り出して、私のハンドルに横から手を伸ばして車をもとの場所に戻しました。減点法なので、合格ラインを下回ったらそこで打ち切られるのでした。これはショックでした。自分としては精一杯、教わったとおりに車を動かしていたつもりだったのに、教官の採点では論外なものだったのです。

4月になって、ある整体師養成学校に通い出すのと入れ替わりに、この自動車教習所には通わなくなりました。通う時間的余裕はあったのですが、もはや精神的に無理でした。そうそうこの整体学校で、高校出たての男の子たちが自動車免許習得のために「しゃこう」(車校ね)に通っているという話が出て、私には「あなたは通わないの?」と訊かれました。すでに挫折しているとは言えなくて「いいえ別に」と答えました。するとそこの校長先生(怪しい中国人風の変わった整体師でした)から「こいつはすぐ悩みだすから運転中に悩みだすわ」とジョークをとばされました。皆それにつられて笑い声をあげました。わたしもいっしょに笑い声をあげました。泣きたくなるのを堪えながら。

この後、いろいろあって自分が整体師の道を進むことはないと気づかされて、上で触れた町医者に再び母につれられて行きました。母が私に代わって事情を話しました。老医師は「うーん、うちでは手に余るので、大学病院の精神科がいい。紹介状を書いてあげるよ」と言われました。

ここから先のことは、前の回で述べた通りです。いろいろあって、旧帝大医学部で面接を受けて、面接官三人とまるで会話が成り立たず、私はとうとう何を喋っているのかわからないことを喋りだして、この三人が互いに顔を見合わせ、次に慌てた顔つきになって、手元にある私の出願書類(だと思います)をチェックしにかかる様が私の目に映りました。書類に目を通し、彼らはようやく気付いたようです、目の前に座っている者が、高校出たてではない、その後何かいろいろあったと思しい人間であることを。そのあいだ私は喋り続けました、何を言っているのかわからないことをです。「ああっだめだ、もうコントロールできない」 心の中でそう呟きました。狂った頭の、残された正常ユニットが、そう叫んでいました。

最初の町医者でのハラスメント、二つ目の町医者の頼りなさ、自動車教習所での失態と叱責、整体師学校でのこと、さらには十代のときに味わったいろいろ、もっと幼い頃のもろもろが、私のなかで一度に押し寄せてきたのでした。

こうやって書き綴りながら、もうずっとずっと前のことなのでどこかひとの人生のような気もしながら、やはり痛みます。これらはみんなすべて私の自己責任だったというのですか神様、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?