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『不適切にもほどがある!』に見る野球論(ネダバレあり)

設定が私にドンピシャ

阿部サダヲさんが主演を務めるTBS系金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の第1話、第2話、第3話を一気に見ました。
ドラマでは1986年と2024年の日本を主人公が行き来するという不思議なストーリーですが、1973年生まれの私には既視感しか無く何の抵抗も無いままドラマの世界観に没入してしまいました。

なぜなら1986年当時の私は13歳で主人公の娘世代、阿部サダヲさんは私世代なので、どちらの立場でもドンピシャで、感情移入しまくりです。

昭和の野球部

1986年の野球部描写は衝撃的でしたね。

①監督の罵声、タバコ
②ケツバットなどの体罰
③罰ゲームの連帯責任
④兎跳びなどの科学的根拠の無いシゴキ
⑤バテるから水を飲むなという迷信
まさに昭和の野球部は「不適切のデパート」です。

1986年当時の私は中学2年生。
野球部だった私も全く同じ境遇でした。
①から⑤は全て当てまります。
当然ですが丸刈りは必須。

しかし、それを「理不尽と感じなかったか」と言うと、答えは「NO」。
なぜなら「それが野球部だった」からです。
小学生の頃の指導者も、同じような感じでしたし、親もそれを「教育(しつけ)」だと称賛していました。

高校球児の頃には、理不尽さを自虐ネタにする余裕も出てきて、逆に苦行に耐える自分を誇らしいとも思えてきました。
大学時代は、実力不足で当事者にはなりませんでしたが、「地獄」の代名詞が付く野球部を身近で見る機会が多く、その理不尽さは既に芸術の領域かと思えるほどでした。

「野球部の理不尽さ」を肯定する訳では無いのですが、「理不尽への耐性」や「理不尽との折り合いの付け方」など、社会に出てから避けて通れない壁を越えるためには、丁度良いリハーサルになったと考えています。

令和の野球部

今のところドラマでは、「2024年の野球部」についての描写がありません。昭和から平成を経て令和になった現在、「コンプライアンス」「ハラスメント」が重視されるようになり、野球部についても私の少年時代とは全く違ったものになっているはずです。

社会人となり、長らく野球から離れていた私も、実際に「そうに違いない」と思っていました。

そう、自分の子供が野球を始めるまでは・・・・。

2016年に息子が野球を始めました。
自分も野球をやってたので、凄く嬉しかったことを覚えています。
しかし、そこで私が見た光景は目を疑うものでした。

「タイムトリップ?」

恥も外間も無く子供を怒鳴りまくる指導者。
それを崇拝する保護者。

それに加えカースト化している親のサポート。
事態は昭和当時より悪化しているのです。

2024年時点で息子は高校1年生ですが、その間に「バテるから水を飲むなという迷信」以外の「不適切」は全て経験済です。時代がこれだけ変遷していることを考えると、野球部はまさに「生きる化石」です。
確かに全ての学校、チームがそうではありませんが、それは昭和当時もそうだったと思います。

しかし息子は、なぜか「理不尽」を受け入れているようです。
なぜなら「それが野球部だから」とのことです。
自分が選択して決めた道に対して、今の子供の方が柔軟性があると感じました。

変わるものと変わらないもの

「不適切」とは、「不適切」だと感じる人間の主観です。
また「不適切」だと感じる人間が必ずしも弱者ではありません。

「不適切」と「不都合」は違います。
私は何者かにとっての「不都合」を「不適切」と読み替えて、それこそ都合の良いように使い分けている感じがしてなりません。

変わるものと変わらないもの。
いくら「コンプライアンス」「ハラスメント」が重視されて、一時的に誰かが、守られても対処療法にしかならず、根本的な部分では、何も変わってない事もあります。

結局、「コンプライアンス」「ハラスメント」を主張した人間が、最終的には損をするというのが、不都合な真実。

昭和に比べ令和は窮屈で生きにくい時代です。
昭和は真っ向勝負で生きることが出来た時代。面と向かって表現したいことをストレートに、伝えたい相手に伝えることが出来た時代。

令和は自分の正体を隠して、不特定多数の匿名が、一人の人間をなぶり殺しにする時代。

一方、野球部は昭和と変わらない体質。
しかし、それを「適切」と共感する人間の集まりであれば変わらなくてもいいのではと考えます。
それは「多様性の問題」だからです。
慶応高校の様な脱丸坊主を唱える高校が全国優勝する等、様々な考え方が許容される中で、様々な「適切」が切磋琢磨すれはいい。

現在、野球をする子供が減り存亡の危機にあることも事実。
この事実が野球部の不適切に関係するのであれば、それは健全な摂理。

健全な摂理を「コンプライアンス」「ハラスメント」で、修正しようとするこそ不健全。

自らの主観で「野球部の伝統」を始めとした、「芸能」「政治」「趣味」「宗教」などの特殊なテリトリーに対して「コンプライアンス」や「ハラスメント」を当てはめ、図るのは少々乱暴な気がします。

日本は元々、宗教を含め多様性を尊重してきた国家。
それを「四民平等」や「一億総中流」などで、みんなが同じであることを求めてきたあたりから、何だか生きづらくなってきました。

今考えると不適切な野球の指導者って、無駄に熱量はありましたよね。

「愛の反対は無関心」

熱量の無い今の関わり合いの中で、熱量って実は愛なのかも知れませんね。

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