嘘つき

noteを始めて二週間以上経ちます。
毎日、更新は続けて来られました。
色々、以前の文章を読んで
自分の記事通しで違和感を感じています。
一つひとつの記事は、思い切りで書いています。
そこに嘘や誇張する気はありません。
しかし、記事同士で整合制がとれていないと思えるのです。

私の記事は、「〜しよう」(Let's --)とか
「私は〜〜したい」(I want to ~~)などが多いです。
人はそんなに目標を立てられません。
自分の規律が多くなれば
規律に自分が縛られていきます。

ここらへんで認めた方がいいいのかもしれません。

私は嘘つきです!と

もちろん故意ではありませんが
結果そうなっているとしか否めません。

皆さんに言いたいことは
私が嘘つきなことだけではなく
勢いに任せてルールも決めずに記事を続けることは
自分を縛ることになります。
もで注意しましょう。

昔から「いうはやすし、行うは難し」と言います。
書くことは記録に起こることです。
読む人によって捉え方が違うのは仕方がないです。

なので、昔の偉人は
自分の思想を文字に残すのをためらいました。
(ブッダ然り、イエス然り、ソクラテス然り、孔子然り、アドラー然り)
みな偉人の死後に弟子たちによる口伝を集めたものが
ほとんどです。

だから、話すことと書くことは違うと思っています。
中には、講演会で話したことを
文字に起こした文章もありますが
まず、素人(私のような)には
難しいと思います。

その場その場で臨機応変に話して教えること
伝えることを「待機説法」と言います。
文章は書くと記録として残るので
どんな時も普遍的に通用することを伝えるのは
不可能です。

書き言葉、話し言葉を
ごちゃ混ぜにしていると私のように
結果的に嘘つきになってしまいます。

これが一種の書くことの限界です。

noteをかいて続かない人や
ネタに苦悩するのは
書くことへの憧れだけが強すぎて
文章を書くことへの限界を見定めていない
ところから来るのかもしれません。

書くことは楽しい作業です。
しかし、逆に言えば
それだけの責任の重みがあったり
書いたことに対し自分を律する
面倒臭さがあるわけです。

本をたくさん読んでいれば
自ずとライティングの限界が見えてきます。

本はしょせん、本です。

なにやら難しい理論になりました。

まとめ
「書き言葉」と「話し言葉」は
違います。
「書き言葉」は記録に残ります。
「話し言葉」はその場に臨機応変につたえることができますが
その場でしか通用しないのが多いと思います。
その違いを肌で感じられるようになれるくらい書いたり読んだりしたいです。

この文章を最後まで読んでくださりありがとうございます。
良かったら好きをつけていただくと嬉しいです。
また次の記事でお会いしましょう。

おわり

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