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自然と社会

今年の元日に
地震や空港での事故がありました。
災害や事故があれば犠牲になる方も出る
ことは事実です。
私は「NHKニュース防災アプリ」を一日中
眺めながら何か違和感を拭えませんでした。
どうしても腑に落ちない思いが自分の中にありました。

私は比較的に災害の少ないところに
住んでいるようです。
それはそれとして良いのですが
災害や事故。その本質はなんでしょう。
なぜ私は違和感を感じるのでしょうか?

災害に遭われた方は
私が想像を超えるより
はるかに大変な体験だと思います。
私たちはそれを想像でしか
思いやることができません。

ところで、現代では
今は子供を産むことや
また逆に人生の幕を閉じるときは
ほとんどが病院です。

なぜか?
日本は近代になり
「都市化」が進みました。
「都市化」とは「自然」を人間の思うがままに
コントロールすることです。

そこで先の話に戻ります。
人間の始まりと終わりが
目には見えにくい「病院」と言うところで進むのはそれが「自然」だからです。

「都市化」の進んだ社会では
人間のコントロールできないことは
人々は平気で隠してしまうことです。

私が、地震災害や航空機事故で
感じた自分への違和感は
そこにあったと思われます。

暖かに温度をコントロールされた部屋の中で
いくらスマートフォンから情報を眺めていたとしても
「都市化」している場所からは、災害や事故は
「私のコントロールできないもの」の部類に
なってしまっている気がします。

この世界には
コントロールできないことが
「自然」界を含めたくさんあります。
その矛盾に私は心が萎えてしまっていたのだと
思います。

社会が「都市化」(書籍ではこう表現されていました)して人間の住む場所からはどんどん
「自然」や「人間の陣地を超えたもの」は
どんどん遠ざけられていると
本の著者養老孟司先生は述べられています。

そんな違和感に苦しんだ私は
Kindleでこの著書を読ませていただきました。

人間にはコントロールできないこと
そんな「理不尽」なこともあることは
事実です。
「都市化」が進む社会では
どんどんその事実が隠されてゆく
ようなきがします。

それは歴史上の既存の
思想や哲学でも
取り扱っていあるのは
珍しいとおもいます。
(例えば、儒教の「論語」では人間がいかに生きるかは述べてあります。
しかし、自然のことを孔子は語ることはないような気がします)

それが私にとっての
石川県能登地方の地震であり
羽田空港の事故だったのです。

人には生活があります。(それが社会です)
それでも前を向いて進むことが
求められています。

「自然」と「社会」そこの折り合いは個人個人で行うしか方法はありません。

だから、私は被害が
大きくならないことを
祈るしかできません…。

そんな思いを抱いた
元日でした。

今回はここまで
では また
おわり

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