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承認欲求

アドラー心理学では
「承認欲求」を認めません。
「承認欲求」とは他人(家族であっても)に
認めてもらおうとする欲求です。

なぜ、アドラーは「承認欲求」を
認めないのでしょう?
それは、他人に認めてもらうためを目的とし
行動してしまうと、それは
他人の人生を歩いてしまうことと
同義語になってしまうからです。

「相手の課題に踏み込まない、
自分の課題に踏み込まれない」ことを
アドラーでは「課題の分離」といいます。

なんと殺伐(さつばつ)とした
考えでしょうと考える方もいらっしゃると思います。
では、アドラーは人間関係の礎(いしずえ)を
どんなふうに考えていたのでしょうか?

それを「共同体感覚」(英語では"social interest"社会への関心)と
いいます。
「共同体感覚」とは承認欲求による貢献ではなく
自由な態度での他人に対する貢献「他者貢献」を
目指します。
「他者貢献」ができると、
そこが自分の「居場所」になり「幸福感」を
感じることができるというとアドラーは
言いました。

元来、私の家庭は「承認欲求」が強い家族です。お互いに求め合って、その欲求が満たされないと傷つけ合っていました。

私も他者と自我の境界線が
ぼやけてしまう癖があります。
なぜか?
アドラーは人の行為には全て「目的」があると
言っています。
私が自我の境界線がなくなってしまうのは
「みんなに好かれたい」「誰かに嫌われたくない」という
少し未熟な気持ち、つまりは「目的」があるからです。

私がうつや体調が悪いのは
誰かに承認してほしいという
欲求が現れた時、それに気づくことができない時です。

つまりは他人の課題に首を突っ込んで
嫌な顔をされて落ち込むことのようなものです。

本来の自立とは正に
「課題の分離」ができる大人です。
嫌われる勇気を持ちながらも
他人のために貢献「他者貢献」ができる大人です。
真の意味での「社会的動物」(哲学者のアリストテレスが言いました)というのはこのような大人です。

これはズルい考えではありませんが
この世界に「完璧な大人」も「完璧な親」もいません。
「毒親」という言葉も流行っていますが
そもそも自分の親が「毒親」か考える前に
自分が本当に「課題の分離」ができている
承認欲求に囚われていない真の大人か
確認する必要があります。

私の両親も毒親です。
というかそういう側面もあると思います。
しかし、本当の親の愛は
愛されなければわかりません。

どうか「課題の分離」をしつつも
親のフラットな愛を感じられるように
自分を保っていきたいと思います。

私だって、親がうっとうしくなったり
過度に心配したり揺れる思いが両親にはあります。
でも「親は親」「自分は自分」と
程よい距離で仲良くいられることを
これからも望んでいきます。

裏腹な気持ちを述べてしまいましたが
今回は「承認欲求」という題で述べてみました。
私たちは真の意味で自由で大人であるべきだと
思います。理想かもしれませんが・・・。

しかし、100年昔のアドラーという
ユダヤ人の心理学者も同じように理想を
願って、「アドラー心理学」を立ち上げたと思います。

寒くなりました。ご健康にお気をつけて、
では また

おわり

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