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自己紹介 #2 中途半端な帰国子女の私と在宅介護

もうひとつ私のアイデンティティを形造るものに帰国子女というものがある。

4年間、親の仕事の都合でタイのバンコクで暮らしていた。
小学3年生10月から中学1年夏休みまで、とても中途半端だ。

日本人コミュニティが確立された暮らしの中でタイ語も英語もネイティブスピーカーとは程遠い。話にもならない。
だが、生粋の日本人的な考え方も窮屈に感じるくらいの染まり方はしてしまった。

小学生高学年にもなると、日本人学校でもディベートの授業が多くあった。
私には意義の大きな時間で言語で主張できる人間になり、自由に個性を発揮できる校風が好きだったが、そんな日本人が日本の田舎の中学校に転入したらどうだろう。
悪目立ちするのだ。

せめて、都会の学校に行けていたらよかったのにと憐れむ教師もいた。
田舎が悪い訳ではないと思うが、当時の都会との比較はできない。
これは、その後も改善の仕方がわからず、長くうまく日本人的に動くことができないままだ。

改善しなくてもいいとも思ったが、若い社会人で率直な主張をする私を、なんと上司は子供っぽいと評価した。
ただただショックだった。生意気だと言わた方がずっとマシだった。
海外生活で誉められてきた生き方は否定されたのだと感じた。その頃はまだ憤りもあった。
サービス残業を黙々とする同僚を私と比較し、彼女はとても偉いと評価した。


たった4年の海外生活に大人になってまで翻弄されることになるとは正直考えもしなかった。


静かに、耐え忍び、長いものに巻かれる、黙って呑み込んで不正にも目を瞑る、それができたら今こんな風に仕事もできない人になっていなかったのだろうか?

私もサービス残業はした、出退勤を自分で打刻することが許されなかったから。
休日に手当の出ない出勤もした。みんながそうだったから。
しかし、すでにうつ病の診断を受けている私の体は悲鳴をあげた。
イヤホンをして通勤をしていたが、イヤホンの音すら聞こえなくなった。
きつい時にすぐに出る症状、嘔吐が止まらない。
出勤時間よりだいぶ早めの電車に乗り、具合が悪いと電車を降りて嘔吐し、また乗り継ぐ。

何度目のドクターストップだろうか?
働くことに向いていないのか、毎回就職先を間違えたのだろうか?選択する業界が良くないのか?

仕事の内容は好きだった、ある社では成績も全国の同期で一番だったこともある、それでも評価は低かった。
上司が守らないコンプライアンスを守ったのもダメだった。

どうしても、なかなか素直な日本人労働者になれない。
私のいた職場で働き続けている人もたくさんいるのに。
鬱も悪化していく、チャレンジしなかった訳ではなかったとは思う。
もう一度言うと、私は仕事は好きだった。
でも、なかなか職場でいきいきすることは叶わなかった。


そして、同じく20代前半で働くことが困難になる、決定的な出来事が起こる。
同居祖父母の在宅介護の開始だ。ここから私の職歴は一度の契約社員経験数ヶ月のみで途絶える。
社会的肩書きが早くもなくなる。報酬のない人の命を見守り続ける24時間365日がやってくる。
もう同世代と同じ波には乗れなくなることになっていく。

誰のせいでもない。人は老いる。
だが、つらい。終わりは見えない。そんな生活に突入していく。改めて、私はこの頃すでにうつ病だ。
極めて日本人的な両親は自分の親を施設に預ける決断が出来なかったのだろう。それを盾にその決断から逃げたのだろう。
誰も知らない家庭という閉鎖的で孤独な闘い方を選び、疲弊と対立の日々が始まっていく。

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