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不便なことがもたらしてくれるもの、便利なことが奪っていくもの

4日空いてしまった。でも毎日続けるとは言っていない。ゆるゆると細く継続する。頑張り過ぎない。


最近テレビやネットで、自分が学生だったころの文化やアイテムを紹介しているものをよく見かける。

そういうのを見ていて、今ある便利なツールが無かった当時はどうしていたのだろう?とふと考えた。

例えばGoogleやYahooといった検索エンジン。
今は何でもすぐに調べられて、すぐに答えがわかる。
PCがなくてもスマホで検索エンジンが開ける。

そういったものが無い時代はどうしていたか。

辞書で調べる、周りの人に聞くとかだったと思うが、そもそも辞書に全ての答えが載っているわけでもなければ、周りに答えがわかる人がいないことの方が多い。そして辞書はスマホの様に日常持ち合わせているものでもなければ、聞ける人が身近にいない状況だってある。

そんな時はどうしていたのだろう

辞書に関しては、辞書がある家に帰るまでずっともやもやしたままでいる。
答えがわかる人がいなければ、そういう人を探すために色々な人を辿っていく。そのうちに、この人はこんなことを知っている、こういうことはあの人に聞けばわかるといったその人その人の特徴であったり、人との関係性が徐々に構築されていった。

今みたいに直ぐに答えはわからなかったし、答えがわかったものはそれだけ苦労したこともあり、なかなか忘れないようにしていた気がする。

でも今はどうだろうか

忘れてもまた直ぐに調べられるから、そこまで記憶に留めておこうとは意識していない気がする。
直ぐに調べることはできるが、答えが直ぐにみつからないとイライラしてしまう。我慢できなくなっている気がする。
そして、人を頼らなくてもネットが回答を教えてくれるから、人に頼る機会が減っていっている気がする。

不便な昔は、わからないことは途中で調べるのを諦めていたかもしれない。その分今の世の中を生きている人よりも昔の人の知識量は少ないかもしれない。

今は昔に比べ、答えに辿り着く可能性が高くなっていて、しかも答えに辿り着くスピードも速くなっている。

でもその分、答えに辿り着くまでに経験する、思考錯誤すること、人を頼ることや関係を作ること、待つことに対する力は弱くなっているのではないか。

便利になることで得られるものもあるが、失っていくものもある

高校の時、英語と漢文の授業がある日は、英語辞書と漢語辞書の2つを家と学校往復させていた。家で宿題するために学校におきっぱなしにするわけにもいかないし、学校用と家用と2つ買ってくれるような家ではなかった(私の周りの友達でもほとんどの子は1つずつしか持っていなかった。そういう効率化を良しとしない時代)。
各教科の教科書や参考書でも毎日大荷物だったのに、そこにあの分厚い辞書2冊って、、もう少し時間割を考えてくれ、と今となっては思う。

今の高校生はどうなのだろう?学校か家かどちらかはネットの辞書で調べるのかな?それとも端から紙の辞書なんて買わずに全てネット辞書なのだろうか。

でも紙の辞書を3年間、家と学校の往復をさせたおかげで、卒業時にはそれはそれは味のある姿の辞書になっていたし、その姿は一生懸命勉強した証である。

今は使うことは無いけど、捨てずに大事にとってある。
たまに引っ越しの時などに手にとって、パラパラとページをめくると、高校の時のことを思い出すことができる。特に大学受験で死に物狂いで英語の勉強していた事を。

この辞書は私の同士であり、当時必死にがんばったこの証は、今の私に勇気や自信をくれる。

不便な時代のものが、今の時代の私にとても役立っている

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