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ピカソ 青の時代を超えて@ポーラ美術館

 令和5年で初めて鑑賞した展覧会「ピカソとその時代―ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」からの帰りに、「ピカソとしっかり向き合ったことが少なかったな。もっとたくさんの作品に触れてみたい」との思いが浮かび上がりました。そして展覧会「ピカソ 青の時代を超えて」を開催していたポーラ美術館に訪れることを思い立ちました。
 制作プロセスに焦点を当て、ピカソの作品を初期から捉えなおそうとする企画趣旨にも心ひかれるものがありました。サラリーマンの僕には、職業画家がどのように作品を作っていくのかを推し量ることはできません。本展覧会で、その一端を知ることができるかもしれないとの期待もありました。

 本展覧会は、ポーラ美術館とひろしま美術館が収蔵する作品を中心に、下記のように展示・構成されていました。
プロローグ 1900年の街角―バルセロナからパリへ
1.青の時代―はじまりの絵画、塗重ねられた軌跡
2.キュビスム―造形の探究へ
3.古典への回帰と身体の変容
4.南のアトリエ—超えゆく絵画

 まず、プロローグで展示されていた《15歳の自画像》に、早熟の天才とは彼のような人物を指すのではないかと思うほど衝撃を受けました。そして「青の時代」「バラの時代」「キュビズム」と年齢を重ねるごとに技法を変えながら、美術史の教科書に出てくる「イズム」ではくくることのできない唯一無二の存在であるすごさを感じることができました。


 特に気になった点を二つ挙げます。
 一つは光学調査で明らかになった「青の時代」の作品制作のプロセスです。「青の時代」は、ピカソが20歳から23歳のころ、青を主調色に死や貧しい人々を描いた期間のことを指します。作品に赤外線反射イメージング分光などの技術を用いると、展示作品の下層には全く異なった作品が描かれていたことが分かったそうです。例えば、《海辺の母子像》の下層部には新聞紙が反転した状態で貼り付けられていることや、下層に女性と子どもの像が描かれていることが分かっていましたが、その他の作品でもキャンバスを使いまわしたり、下層に描かれた絵の一部を展示作品に流用したりしていることが分かったそうです。彼がキャンバスを何度も再利用していることを初めて知りました。何故、そんなことをしたのでしょうか? 解説には貧困が主な理由だったとありましたが、何故、再利用を思い立ったのでしょうか? 作品が気に入らなかったのでしょうか? それとも別の表現方法を模索するためだったのでしょうか?


 二つ目は動画として記録されていた《ラ・ガループの海水浴場》の制作過程です。モチーフはタイトルの通りの海水浴場ですが、ピカソはキャンバスの上で人物を増減させたり、描き方を変えてみたり、コラージュを取り入れてみたりして何度も書き直し、現在観賞できる作品に仕上げていたことです。納得ができるまで何度も書き直しを続けるピカソの執念に凄みを感じました。というのも、制作の前に、クロッキー帳などで全体の構成を練ったり、習作を作ったりするものだと考えていたからです。僕が記事を書くときには、伝えたいことや、それを補足するために調べたことなどをメモにして、読者に自らの考えや思いが最も伝わるように並べ替え、もっと適切な表現がないか、メモを書き直したり、不要なメモを廃棄したりして下書きをします。その後、用字・用語の統一、誤字・脱字がないかをチェックして記事として完成させます。いきなり本番を書き出すということはしません。しかし、ピカソはいきなりキャンバスに向かっていたのです。


 会場に滞在していた時間よりも長く電車にゆられながら、たくさんの思いが浮かんできました。友人の自殺をきっかけに始まった「青の時代」が3年間にも及んだ理由や、戦争や絵画の流行を作品に取り入れていたこと、画風を作っては壊す作業を繰り返して自分自身を常に更新させていたこと…。「ピカソは言葉ではなく、線や色で真理を追究しようとする思索家なのだ」と思うようになっていました。
(観賞日:令和5年1月14日)

「ピカソ 青の時代を超えて」
会期:令和4年9月17日(土)~ 令和5年1月15日(日)
会場:ポーラ美術館
主催:公益財団法人ポーラ美術振興財団 ポーラ美術館、公益財団法人ひろしま美術館


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