見出し画像

フィルム写真の本当の写りとは

●違和感

かつてデジタルカメラが登場して間もない頃、2ちゃんねる掲示板などではよく「デジカメ厨」という言葉が出てきた。「写真の基礎を全く無視して戯言を言うデジタルカメラしか使ったことがない中坊」という意味を込めた蔑称で、「デジカメ厨はフィルムから出直してこい」と言われるのが常だった。(ボク自身はROMだったので2ちゃんねるでは書き込みをしたことがない)

当時のデジタルカメラの画質はエッジが立っており、いかにも「ビデオカメラで撮影したものをキャプチャしました」というようなチープな画質であった。フィルムを使っていた我々からするとデジタルカメラで撮った写真など写真とはとても呼べない代物で、それを写真と言ってしまう者たちには強烈な違和感を持ったのだ。

<当時のデジタル画質>

ところが現在、フィルムとデジタルの立場は完全に逆転している。デジタル画像はもはやデジタル臭さが消え、解像度もフィルムを追い越した。

<現代のデジタル写真はフィルムの解像度を追い越した>

そしてこの時代、フィルム写真の画質が新鮮に見える者たちが、「フィルムらしい写り」を求めてこのデジカメ時代にあえてフィルムを使うようになった。フィルムを使うとエモい写真になるという。

ただし、彼らは別にフィルムを蔑(さげす)んでいるわけではない。むしろフィルムに対してリスペクトしているようなのだがボクは何だか「お爺ちゃんすごいね」と変な褒め方をしているように思えて強い違和感を持つのだ。

かつては使う方も本気で挑まなければ言うことを聞かない頑固オヤジだったフィルムが、今では赤いチャンチャンコを着せられているようで、見ているボクは複雑な気分になる。

●フィルム時代の画質追及

かつてのフィルム時代を振り返ると、ボクたちの世代は画質向上と色再現性のために心血を注いでいた。単焦点レンズかズームレンズかという激論が巻き起こったり、高感度フィルムは使えるのかどうかと検証したり、絞り優先かシャッター優先かという派閥に分かれて争ったり、シャッターチャンスのためにモードラが秒間何コマで連写できるかを競ったり、AFはプロの要求を満たせるものではなくMF一択という記事を読んで頷いたり・・・。
(※当時は写真雑誌の特集記事や読者意見などで議論が行われていた)

フィルムメーカーでも、色飽和度を上げたり、T粒子により微細描写を可能にしたりと、様々な研究開発で他社との切磋琢磨を続けていた。そもそも微細粒子を薄く均一にフィルムへ塗布するには高度な技術を要し、日本に2社(富士フイルムと小西六)もフィルムメーカーがあることは日本人として自慢であったのだ。

一方ボク自身のフィルム撮影に対する努力として、フィルム選びがスタートとなった。
きっかけは、ネガからポジ(リバーサル)へと移行したタイミングだったが、ポジでは思うような色が出ないことがよくある。なぜならば、ネガではDPE店のオートプリンターで色の偏りがあっても自動補正されるため、例えば蛍光灯下での撮影でも特におかしな色になることはない。だがポジでは撮影後に色を調整することができないため、撮影時に調整しなければ蛍光灯下では緑色に写るのである。他にも白熱灯の下では赤っぽく写ったり、晴天下の影では青っぽく写る。

また、フィルムのロット違いでエマルジョンナンバー(乳剤番号)が異なり、それで発色が変わってくる。「ロット違いなど誤差の範囲では?」と思われるかも知れないが、同じ被写体を続けて撮っていると完全に違いが分かる。ボクが最初に使ったポジフィルムはコダックのKR(コダクローム64)というものだったが、これは特に色転びが強くエマルジョンナンバーを揃えてカートン買いしていたものである。

<同じ釜で調合された乳剤であることを示すエマルジョンNo.>

そのエマルジョンナンバーの色の傾向を知るために、まず最初にテスト撮影をする。一定の光源の下、LBフィルター(色温度調整用シートフィルター)を何枚も替えて順次撮影する。そして現像されたスリーブ状態のフィルムを高演色のライトボックスでチェックし、そのフィルムの色補正量を把握する。

また、撮り直しがきかない撮影がある場合、フィルム1本だけをまず試しに「切り現(※)」に出し、その結果を見て残りのフィルムの増感・減感を決めたりもする。
(※切り現=現像所にてフィルムの数コマ分の長さを切り出して試し現像をしてもらうこと。どうしてもコマの途中で切断されるが、全体を救うためには一部の犠牲は仕方ない。)

<切り現の結果、設定ミスが発覚して+1.5段もの大幅増感を指定した例>

もちろん撮影前後にも注意が必要で、フィルム装填時は強い直射日光が当たらないように自分自身の影の中で作業し、撮影後は温度・湿度に注意して直ちに現像に回す。フィルムを炎天下の車の中に置いておくなどもってのほか。

・・・とまだまだあるのだが、疲れてきたのでここまでとしたい。
このように、フィルムで思い通りの結果を出すのは本来大変なことなのだ。ボクたちはそんな時代で、写真に高画質・色再現性を追求してきた。

<高演色ライトボックスとルーペで画質を詳細にチェック>

●フィルムらしい写り

ここまで書いてきた努力というものが何を意味しているのかと言うと、「フィルム写真というのは、あらゆることに努力しなければただちに結果が悪くなる」という事実にほかならない。フィルムは生ものであり、化学反応による微妙な変化を利用する媒体。フィルム撮影というものは工程が多数あり各工程で適切な処置をしていかないと不適合が蓄積していき、最終的に思うような結果が得られないこととなる。

ところが最近もてはやされているエモいフィルム写真を見ると、ボクたちがフィルムに対して払った努力を全て省いたような画が表現されているのだ。色褪せ、粒子の荒い、とても高画質とは言えないようなもの。かつてはこうならないように努力していたのに、これがフィルムらしいなどと言われるとは・・・。
今までフィルムで正確な色や露出に苦労してきたボクは、非常に複雑な気持ちになる。

「ではそれ以外にフィルムで撮る価値などあるか?」と言われると言葉に詰まってしまうが、それでもフィルムにはデジタルでは足元にも及ばない性能を持っていることを忘れてはならない。それはデジタルでは考えられないような広いダイナミックレンジ。光量の小さなライトボックスでは硬調に見えるポジフィルムであっても、太陽のような明るい光源で見ればその鮮やかさはデジタル画像とは比較にならない。デジタル画像では白は白にしか見えないが、ポジフィルムの白は眩しさすら感ずるパンチの効いた白。これこそが、フィルムらしい本当の写りである。

<フィルムの白は眩しい(※イメージ)>

そのようなフィルム画像をデジタル化してしまえば、フィルムの良さというものは完全に消滅する。デジタルの範囲に収まりきれないフィルムの写りをデジタルにしてしまうのだから、それはもう、フィルムの写りを持たぬものである。

FUJIFILMのデジタルカメラにはフィルムシミュレーションという機能があるが、あれなど結局はデジタルの範囲で色味を再現しているだけに過ぎず、デジタルを越えたフィルムの写りではない。フィルムメーカーなのにそういう根本が解っていないのか、あるいは消費者に迎合しているだけなのか。

●ロストテクノロジー

ディスプレイではなく現物でしか味わえぬこのような画質を持つフィルムのような写真媒体は、今後二度と現れないだろう。そのことを知っていたボクは、2009年にコダクロームが生産終了となることを知って、最後のコダクロームをNikonF3に詰めた。大したものを写してやれなかったのは申し訳なかったが、それでも二度と現れないであろうロストテクノロジー(※)となるはずのコダクロームを最後に堪能できたのは幸いだった。

(※コダクロームは唯一の外式カラーポジフィルムで、現像所も限られたところにしか無かった。日本は特別に現像所があったものの、アメリカの現像所に送らねば現像できない国も多かったと聞く。)

これまでカメラメーカーやフィルムメーカー各社が切磋琢磨して開発された製品、そしてそれらの製品を要望し選んできたボクたち。その結晶たるフィルム写真技術の画質は、変な色をしたものでは決してないということを後世に伝え続けなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?