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3.11 東日本大震災は私には全く関係無かった

fukushima50 を観てきた。
9年前の今日3月11日に起こった東日本大震災の時の福島第一原発の姿を描いた映画で、知らない人はググってみてほしい。

私は鹿児島県民で、生まれた時から地震には全く縁のない生活を送ってきた。M9.0なんて予想もできないし、映画を見ても当時流れていたニュースを見ても、私には関係が無かった。関係が無いように感じたとか、よく分からないとかじゃなくて、本当に関係が無かったのだ。映画を見て、実質初めて東日本大震災に触れたと言っても過言ではない。劇場を出るほとんどの人が泣いていた。だけど私は、感情を処理しきれなかった。

まず、「日本が終わる」という言葉と共に命がけで戦う現場の人間にも家族がいて、その人たちが現場を放棄すればもっと多くの人が犠牲になる。そんな状況が実際に、日本で、わずか9年前にあったという事実が、やっぱり信じられなかった。当時現場で命がけで対応した人間"fukushima50"の勇姿に感動して、涙を流すことはごく自然なことで、この映画がノンフィクションであるからこそ当たり前が当たり前でないことを痛感させられた。人間が自然を舐めていたという表現も、まさにその通りだと思う。

同時に私はどうしようもないモヤモヤを抱えてしまった。帰りがけに、「いや結局総理大臣がクソ」「国がダメだった」という話をしている男女とすれ違った。映画の中では、当時の政府の対応の杜撰さが現れているし、実際に当時の政府の対応は決して完璧と言えるものでは無かった。でもそれは、「当時の政府の対応」で「政治家の対応」が悪かったのだろうか。もしそうなのだとしたらなぜ、Yahooで3.11を検索してストーリーやTwitterにあげる人の多くがほとんど自分の国のことを知らないのだろうか。

何も学んでいない。復興だ復興だと騒ぐだけで、この国は何も変わっていないのだ。

私はコロナウイルスがもたらす経済の危機や国の対応についてどうしてみんなが疑問や関心を持たないんだろう。苦しむのは本人たちなのに。と、ずっと思っていたし、それがめんどくさくても必要な情報だったらみんな得ようと努力するものなんじゃないかとずっとずっと考えていた。

でも、理由は簡単だった。

関係ないからである。

私に東日本大震災が関係無かったように、コロナウイルスも夫婦別姓もジェンダー問題も差別も政治も全部、意識しなければ私には何の関係もない。関係無いのに、自分が当事者になった瞬間に、誰が悪い/どこが悪い/何の責任だと責め立てる。責める場所を、悪い場所を無意識に探している。

もちろんどこかに原因がある場合が多いけれど、それでもその多くを招いた根元はこの国を生きるマジョリティの無関心だということに私たちは気づかなければいけない。

画面の向こうの真実に涙を流せる人間が、なぜ起こるかもしれない自分のことに、自分にとって大事な人のことに真剣になれないんだろう。とずっと思ってきたし、周りの人間にそれをどう伝えれば伝わるんだろうとずっと考えてきたけど分からなかった。

正確に言えば今も分からない。

それでも、私たちの多くがただの1人であるということは認識しなければいけないと思う。

自分たちのリーダーが、自分たちの見ている世界が本当に信じられるものなのか。自分たちの命を、その人たちに預けられるか。大袈裟なように聞こえるかもしれないけれど、政府のせいだというその政府の人を選んだのは国民だということを考えたら、福島の第一原発で起こった事故はある意味そんな無責任が招いた人災だったのかもしれない。

政治に関心を持つ必要はなくても、自分たちに何かが起こった時、自分と自分の大事な人をどうやって守るかは考えなくちゃいけない。会社が悪い、行政が悪い、政治家が悪い、あいつが悪い、大きな何かが起こるといつもそんな言葉が飛び交うけど、じゃあそこに至るまでにあなたは何をしたんだ、何ができたんだと聞かれたら私はきっと答えられないだろう。

fukushima50は、当時の官邸側への取材をしないままに作成されたものだと聞く。私の知り合いに当時官邸で働いていた人間がいて話を聞いたが、民主党批判に終始して多面的な意見を反映した作品では無いのかもしれない。それでも、この作品はあらゆる組織を写しているし、何かあったら上から指示が降りてくる構図が大小問わずあることは間違い無い現実で、そう考えるとやはり、政治抜きには物事を考えられないのだ。

私たちが選ばなきゃいけないのは、自民党でも民主党でも共産党でもない、自分の国を誰に託せるか、この人になら、何かあった時に自分と自分の大事な人の行動を託せると思える人間を選ぶ必要がある。選ぶためには知らなきゃいけない。知るためには、今自分が日々見ているメディアが本当に真実を写しているのかを考えなければいけない。

デマか本当かもわからない流れているものをそのまま見て知った気になって満足してしまっては、知性が文明に敗北したと言っても過言ではないだろう。

私たちは豊かなはずだった。多くの人が自分のメディアを持って、情報を得ることも発信することもできる。

「自分の大事な人が、自分自身が、いざとなった時にどう身を守れるのか、そのためにいつも何ができるのか考えたい」

そんなことを言う人はたくさんいるけれど、たぶんこの時代にやらなきゃいけないのは防災やあらゆる予防だけではなくて、自分が信じられる情報がどこから得られるか、自分がどうやって正しい情報を見極めるかのスキルを身につけることだと思う。そして、大きな物事が起こった時に一過性の関心を向けるだけではなく、事あるごとに、一年に一回でも良いから、年を追って「今」に目を向けることではないだろうか。

私にとって、東日本大震災は関係無いかもしれない。でも、私の大事な誰かが東日本大震災によって傷付いたのなら、それはもう関係のない事ではなくなるような気がする。コロナウイルスも、次に起こりうる災害も、きっとそうなっていくことだろう。画面の奥の誰かの命に涙を流せる人間のそのエネルギーを、もっと目の前のことにも使えないだろうか。

9年前生まれた子供は小学校3年生、4年生になり、授業の中に「社会」という単元が増えただろう。9年前中学2年生だった私は、22歳になりこんなに偉そうなことを書けるようになった。1人の人間があの時できなかったことができるようになるくらいには、もう充分に時間が流れている。

私たちは流れていく日々の中で何を掬うことができるのだろう。


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