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知られていないことの幸せと、確実な1割

前回のnoteから1ヶ月半くらいたってしまいました。もはや日記ではないですね。

前回noteを書いた時は、ちょうど世間でコロナがひどくなり始めて、大学での授業をどうしたら良いものだろうかと思っていた頃。3月は、申請書書きで慌ただしく、あまり世情を調べていなかったが、「これはまずいなぁ」と思い、大学の末端の構成員として、機会があれば授業は遠隔化すべきだと言って回っていたら、いつのまにが学部の授業遠隔化ワーキンググループのメンバになって、学部向けの遠隔化マニュアル作りなどしていた。4月の前半は怒涛だった。

その間、県外の親戚と会わなければならない状況だったゆとりさんとは予防的に2週間の別居をすることにした。


遠隔化をして見えたこと

どこの大学も、多少の差はあれど、GW明けから本格的な遠隔授業を開始するように準備をしていたと思う。SNSを見ていると、いろいろな意見や困難がある。個人的には、現状で、あるべき教育の姿を問うてもしかながないので(例えば「対面じゃなければ豊かな授業はできない」という理由で、遠隔授業に半ば批判的な態度をとること)、遠隔授業をどのように効果的に行うことが可能か、1日くらい考えた。とりうる手段はいくつかしかないので、迷いは無かった。

この頃、学部の授業遠隔化の委員になってしまったので、頭の中にある構想をマニュアル化することになった。僕だけのためならば、やりながら様々なシステムを試していけば良いが、学部の指針を作るので、予め使用するシステムをvalidationしなければならず、この作業に1週間かかり、マシュアル執筆にさらに1週間かかった。だいたい2万字くらい。幸いだったのは、ワーキンググループの座長が馬力があり、戦略を立てるための意見も発足時から一致していたことだ。この座長の先生が僕を指名したのだから、良いタッグになるのは当然と言えば当然なのだが、非常に働きやすかった。

このマニュアルを作っていた頃は、様々な方法論を早急にnoteにHOWTO物として書こうかと思っていたが、その気はなくなってしまった。僕自身の授業の準備をしているうちに、大体の大学で方針が固まったように思えるからだ。

なので、抽象レベルのことだけ記しておこうと思う


GoogleやMicrosoftはやはりすごい

これら企業が提供しているサービスで大体のことはできる。OneDriveは、企業や団体のライセンスで使用していれば、その団体内でのみ共有という設定が可能だし、構成員の誰が閲覧したかも記録される。僕は、授業用の動画を、「リンクを知ってる人だけ閲覧可」の設定で作成したgoogle site のwebサイトに埋め込むことにした。


ダウンロード不可の設定は、意外とできない

GoogleDriveである程度可能なのだが、スマホアプリから閲覧すると「オフラインで使用」というシステムがあり、実質DLされてしまう。共有側がファイルを消すと、閲覧者側からも削除はされるので、制御は可能。OneDriveは、WordなどはDL不可にできるが、動画などはDL可能。dropboxは、高い料金のプランじゃないとDL不可にはできない。動画配信だけであれば、MicrosoftのStreamはDL不可にできるし、音声認識→字幕生成の機能もあり、驚いた。ただ、Streamは、検索をかければ組織内の誰でも動画を見ることができるので、受講者以外も閲覧できてしまう。


LMS(learning management system)について

本学はmanabaというものを使っていて、このシステムからファイルの配布やレポートの回収、小テストなどができる。しかし、このように全国でオンデマンド授業やオンラインが行われることは想定していなかったらしく、一斉アクセスによるサーバダウンが懸念され、実際にいくつかの大学でそれが起きている。うちの大学は、我々が発足当初から画策し、担当部署も独自に頑張っていて、外部システムも使うように分散化したので、特にダウンはしていない。

しかし、LMS自体がgoogleかMicrosoftで構築されていて、そのアカウントに紐づけて受講登録などして、閲覧権限も付与し、一元的なシステムにしていれば、手続きとファイル共有が非常に楽だなぁと思った。

入学時の手続きから受講登録、単位認定までのシームレスなシステムにしている大学は、今回非常に楽だっただろう(大抵の大学はここが大変だっただろう)。


Vimeoデビューした

オンデマンド授業配信用にどのシステムを使うか悩んだ挙句、Vimeoの一番安いプランを個人的に契約した。月700円。youTubeは、閲覧者が動画をウォッチリストに入れてしまったり、ワンクリックで間違ってシェアしてしまうと、世に漏れる可能性がある。漏れたとて恥ずかしくはないのだが、著作権にまつわる教育利用は、広域配布がなされないことが条件なので、ちょっと慎重になってみた。

始めは、GoogleDriveから動画を配信していたが、GoogleDriveは閲覧数が1,000回を超えたあたりで配信に制限をかけることが分かった。googleとしては、大量のブロードキャストはyouTubeを使いたいというポリシーらしい。教育機関用G suite の契約をしている大学では、GoogleDriveからの動画配信は制限されないらしい。

そこで、vimeoでパスワードかけて、動画埋め込みなどすることにした。せっかくなので、今後は研究の実験動画もここから配信しようと思う。論文に載せる参考動画やラボHP用の動画にも使えるし、鹿児島の風景なども載せていこうと思う。vimeoは、インターフェイスが心地よい。

(書いてみたら、あんまり抽象的ではなかった...)


すぐに僕の生活は別のフェイズになっていた

noteを初めて3ヶ月、今年の正月を迎えた時点で11万字を書いたと、以前述べた。これは、ありがたいことに大学で職を得たのに学務に翻弄されて論文を執筆できない日々となり(データはあるのに)、それを打破するために読んだ以下の本の影響による。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000147753

それと、この本を読む前に森博嗣の日記本を読んで、彼の日々にも眼から鱗だった。作家の仕事は毎日1h以下でも、あれだけ本を書けるのである。

方法は、簡単で、毎日書くこと。たとえ1hだとしても。そのための予定を他のアポイントと同等の扱いとして、死守すること。これだけだ。

そういうわけで、4月下旬に前期の授業でオンデマンド化すべき授業をリストアップし、動画を撮る予定を立てた(1人Zoomの録画)。予定よりも1.5日ほど早く終わり、5/13に必要な全ての授業をオンデマンド化することができた

このことで、この3年間ではあり得なかった長さの期間、授業することそれ自体に時間を使わない月日ができたことになる。ただし、オンラインでリアルタイムでやってる演習は2つあるので、これはZoomで週2である。


分かったこと(1):90分を1回とすると、僕は年間101回の授業をしているらしい。これが、多いのか少ないのかは分からない。たぶん、少ないということはない気がする。このような定量的な把握も、これまでおざなりにしてきた。分担して担当している授業も多いので、関係している授業の数だけで見ていると、分からないものがあるということ。

分かったこと(2):遠隔授業では、対面式の質が保てないという声は多い。実際、実習やフィールドに出る授業、実技や実験は、間違えなくそうだろう。しかし、講義や一部の演習はどうだろうか? ゼミなどは、画面共有ができるので、様々な資料をアドリブで提示することも可能だし、視認性も良い。ラボのゼミでのディスカッションとしては、不便を感じていない。では、講義や、ソフトウェアを用いる演習に関しては、どうか。僕の感想としては、日頃の対面授業での「甘え」が存在することが、身に染みて分かった。この甘えとは、僕の側の甘えである。「口頭で補足すれば良い」、「口頭で方向修正すれば良い」、「学生のリアクションを見ながらやれば良い」、「板書で説明すれば良い」。普段なら、そうやって授業に臨んでいる面が、多々あったことがよく分かった。録画の際、そのような箇所の説明に到達すると、自分自身、言葉が出てこないのだ。そこで今回、この甘えのために不足していた箇所を、全てスライドでビジュアライズした。授業資料の質としては、格段に上がったと思っている。学生も、分からなかったところは何度でも見ることができる。授業の段取りも、不足がないように事前に情報を提示できるよう、チェックした。来年度、対面授業を行う際も、教材にすることができる。予め動画を見せて、対面では反転授業として質問への回答やディスカッションにあてることもできる。


どんなときでも


都市部は大変な状況で、このような日々は、早く終わって欲しい。しかし、幸いにも、あまり状況が悪くはない地方にいる僕は、できることをする日々にしようと思う。いつ、どんなときでも、少しずつでも、やれることをやる。そういう姿勢じゃないと、やれるときでもやらないのだろうと思う。今週から来週にかけては、主に研究関連の予定を立てた。

本当は、3月末に、NHKの朝ドラ・スカーレットで感じたことを、noteで言葉にしてみたいと思っていた。いつの間にか、日々が過ぎてしまった。あのドラマでは、しょうもない日常も、辛い日々も、等しく価値があり、等しく過ぎ去るものとして描かれていた。その中で、積み重ねたものが主人公たちの「作品」となる、そういう人生観だったように思う。


知られない幸せ


ゆとりさんとの予防別居中、久々の一人暮らしをした。その間、ふとつけたテレビで、放送作家の小山薫堂(くまもん を作った人)が、今田耕司に京都案内する番組を見た。僕は、京都は大好きだし、この番組で紹介されている場所も、良いなぁと思った。この社会のレベルの高い人が集う場所、過去の偉人たちが愛した場所に自分が居合わせるような高揚感も、きっとあるだろう。

しかし、ふと思った。「別に、こういう感じの良い場所は、鹿児島にもあるな」と。そしておそらく鹿児島のそういう場所は、全国的には、あまり知られていない。

関東では、湘南などの神奈川方面に、この時局でも多数の人が休日に押し寄せているとニュースになっていた。これは別に、「都会の人のモラルが低い」というわけではないだろう。人口が多ければ、その0.1%の人が「あそこなら大丈夫だろう」と思って赴いても、相当の人数になってしまうというだけである。多くの人がいる、多くの人に知られているというのは、そういう不自由さがある。

最近では、Discordというアプリで、主にtwitter経由で知り合った人と論文の読み合わせ会をしたり(ほとんどの人の顔を知らない)、知人と「いまから1h、論文を書く」と、ただ宣言するだけのサーバ(スレッドやグループのようなもの)に参加している。知人に誘われた別のサーバでは、いろんな人が漫画を読んだり音楽をただ聴いている。みんな自由だ。しかし、人が増えすぎれば、荒れることだろう。

ちょっとした知人で、web上で有名な人たちは、自粛警察に悩まされているようだ。僕は知名度が低いので問題はないのだが、それでも、昔はtwitterでよく絡まれたものだった。それが、近頃では至って僕のTLは平和だ。どうしたんだろうか...


確実な1割

僕の授業は、大して人気がない。人文社会系の学部で、神経科学の授業をやっているので、そりゃ、そうだろうと思う。ゼミ配属希望も、人気は特にない。選外になる人が出たことはこれまでにない。多くの学生が、人の心理学をしたいわけで、動物を扱っている僕のところにはそうそう来ない。

最近、あるラボメンが言ったことを、思い出した。上述の、京都の番組を見た際に。

「かんのさんの授業は、確実に1割に響くように出来てるんですよ」

ほう、1割か。

なんとなく、多くの人に共感してもらったり、注目を集めたりする方が、良いモノなような気がする。少なくとも、授業は、多くの学生にとって分かりやすい方がいいだろう。人気も、ないよりは、あった方が良い。

しかし、多くの人に良いと思われるコンテンツを作るのは、不自由だなぁと思う。そういう時代とも言える。多くの人と関わるということは、平均化され、単純化され、エッジの部分は磨かれる。そこでは、独自の方向性というものは、消えざるを得ないだろう。

インターフェースの良さ、もしくはユーザビリティというものは、なるべく多くの人に受け入れられる方が良い。授業の遠隔化を体験しても、そのように思う。ただ、コンテンツというものは、みんなに知られる必要もなく、多くの人に受け入れられる必要も、ないのかもしれない。確実に1割に響けば、それで十分だ。多くの人に知られることとなれば、その1割の人も不自由になる。


さて、この社会では、テレワークや遠隔化によって、これまでは日本社会で浸透しなかった様々なインターフェースが共通語となりつつある。このあとは、どんなコンテンツが残っていくだろう?


なぜか家の整理をして、長年溜まっていた伝票などを、捨てた。



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