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「今できること」は、かけ捨てじゃない方が良い

前回のnote「知られていないことの幸せと、確実な1割」から20日経っていました。その頃は、授業の遠隔化対応で、オンデマンド授業の動画を作り終えた頃でした。いまは、オムニバスや前半を担当していた授業が終了して、LMSでの告知作業も減ってきたところです。

今日は、久々に自分主体の論文原稿を書き終えて、英文校正を発注し、一息ついた感じです。

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最近の街やSNSを眺めて

リアルな対面での社交や談議のストレスと比べれば、断然SNS疲れをしない僕だが、そんな僕でも最近のTLは殺伐としているな、と感じる昨今。

それでも、SNSから人々の前向きな姿勢を感じることもできる。


城山ホテル(以前の名前は城山観光ホテル)は、資本的体力があるからできるのだろうけど、緊急事態宣言下の休業中に、屋内のリニューアルをしたようで、インスタの投稿も今後を見据えた対応をしているように見える。通常営業をしていると、この様な工事を一気に進めることは難しいだろうけど、休業を機にサッとおこなったのかな?と想像。


鹿児島で人気のパン屋さんのダンケンは、以前より小包装が進み(プラゴミは増えるなぁとは思うが)、レジがあっという間にリニューアルされていた。店員と客が接触しないシステムのレジが2台導入されている。おそらく、今後を見越したのだと思う(いわゆるウィズコロナ)。


知り合いの多いマルヤガーデンズは、この時局に10周年を迎えたのだが、みんなで共有スペースやそこにある家具のメンテをしていた。


鹿児島にもオフィスがあるGMOペパボは、日本では、もしくは世界的にもかなり早期にリモートワークに舵を切った企業だろう。今後もリモートを続けるというし、それができるのはこれまでの蓄積があったからで、僕も、ペパボのブログはオンラインのツールを使う際に参考にしている。上記は、CTOのあんちぽさん(鹿児島県のご出身)のインタビューで、もう「元に戻る」という考え方はしない方が良いだろうという旨を述べておられる。この機に、新しいことに向けた蓄積をするべきだろう。それが、今後の多様な働き方を生むことにもなる。スローガンではなく、やり方自体を変えなければ実現されないことがあり、それを可能にするのは今この時の判断によるだろう。


リモート化・遠隔授業で失ったモノ? 得たモノ??

モノゴトのリモート化で圧倒的に失われたモノ、それは、リアルで対面のコミュニケーションだ(当たり前だ)。だが、リモートの仕事や遠隔授業が「リアルに劣るモノ」であると考えることは間違えだ。もしそのように考えるならば、それは、リモート化を「これまでのリアル」の代替と考えているからに過ぎない。二項対立に陥っている。

もちろん、好きなお店での会食はリモートでは変えがたい体験だ。最近では、鹿児島でもお店の人と知り合いになっているところも、僕自身多々あり、友人たちと早く行きたいと思う。この様な業種の人には、大変な時期だと思う。仕事はリモート化できても学校が休みでは、家では子育てに追われるという家庭もあるだろう。

ただ、これらのことは、いずれニューノーマルな日常ではなんらかの形で行なわれる様になるし、日常として可能なカタチも模索しなければならない。いずれ、オンラインとリアル(対面)は、いまよりも併用されることが日常となる。

オンラインやオンデマンドで良い体験が可能になることは、我々に選択肢の広がりをもたらし、リアルな体験の本質的な必要性を今よりも鮮明に浮かび上がらせるだろう(逆に、不要なものごとも明らかになる)。


僕はほとんどの授業をオンデマンドで動画配信にしているが、自分のラボのゼミと、フリーペーパーを作る授業に関しては、リアルタイムでオンラインにしている。ゲストの人の声を生で学生に聞いてほしいという思いもあるものの、オンラインなので、東京からお話をしてもらうこともできるし、鹿児島市以外にいる外部の方が毎回参加することも可能になる。先日は、鹿児島の川辺で毎年開催されている音楽フェス GOOD NEIGHBORS JAMBOREE を主宰する坂口修一郎さんにお話をしてもらった。実はこの授業、いちき串木野(つけあげ = さつまあげ が生まれた街)のフリーペーパー Aluhi を作っている小林さんも毎週参加してくれている。今後、取材をしてフリーペーパーを作っていく授業なので、この状況はやりづらい面も多々あるが、今年ならではの良いこともあるわけだ。

昨日の研究室のゼミでは、音声コミュニケーション研究の今後の方向性を僕がプレゼンしたのち、Zoomのブレイクアウトルームで2部屋に分け、3年生が卒論でしたいことを4年生に掘り下げてもらった。意外と、うまくいった感触。リアルだと、グループに分けても少人数感を出すのが難しいことも多いが、ブレイクアウトルームが醸し出す少人数感は独特だ。何せ、他のグループの会話は全く聞こえないのだから、当然の体験なのだが。それゆえ、各メンバが主体的に喋りだす。


リアルタイムの重要性とオンラインツールの可能性

オンデマンド配信でもある程度のことは達成できる。しかし、リアルタイム性が重要なことも間違えない。これは、オンラインであるか対面であるかというよりも、相手からのリアクションがタイミングよく返ってくるという Sense of Agency の問題だろう。それゆえディスカッション形式の授業は、上記のように僕もオンラインのリアルタイムで行っているわけだ。

1年生対象のPCの使い方の授業を担当していて、この授業は学部で6人の先生が各クラスを受け持っているので、動画資料は学部で共有することにした。ここ3週に関しては、オンデマンドで行ったパワポによるスライド作りの授業で得たスキルを活かして、全員が自己紹介をする回となっていた。自分の出身地や趣味、大学生活での目標とかを各自が話す。学科・コースとしてのアイスブレイクも兼ねているわけだが、今年はまだ一度も対面の授業で集ったことがないので、貴重な時間となった。

毎年この自己紹介プレゼンで、最近の18歳世代が聴いている音楽、九州を中心とするみんなの地元の話を聞くのがとても楽しみになっている。おそらく、僕が毎年一番盛り上がっている。今年は、Zoomだったので、発表中にチャットでコメントを募りながら開催した。すると、この3回の授業では、どの回も500以上のコメントが寄せられた。twitterに慣れている世代特有の使いこなしで(僕もtwitterが地元)、普段の授業では考えられない数の自発的なコメントの数だ。それに、とてもあたたかい空間になった。おまいら、最高か!

授業が終わる頃には、来週からまたオンデマンドに戻るので「さみしいです」というコメントも散見された。

対面の授業でも、発言をしてくれればこちらとしては嬉しいのだが、さすがに数百の発言はさばききれない(時間が足りない)。しかし、対面授業でもアプリでスクリーンにコメントを表示することは可能で、こういうものも併用した方が授業は盛り上がるのだろうと思った。


ところで、うちのラボは、会えばみんな割と話す。幸い、現状では仲が良いラボだと思う。MLはあるが、普段はtwitterDMで連絡をしていた。なんとなく、この春から、以前から用意はしていたslackに全面移行しようと思っていたところに、コロナが来た。slackを導入していて、本当に良かったと思う。チャット的にリアルタイムな会話もしつつ、アーカイブ化も用意なので、研究がスムーズになっていると感じる。

「会わなければ話が進まない」のでは、本当に話は進まない。対面が可能であったとしても、タイミングが合えばいつでもちょっとしたことが「話せる」ツールは、コミュニケーションをスムーズにする。アイデアが降ってきたときに、ちょっとしたことを投げかけ、それを蓄積することができる。リアルタイムで返事をしても、あとて返事をしても良い。とにかく、臨場感が残る。

むかし、twitter上で知人も知らない人も入り混じり、くだらないことから学問的な話題が盛り上がっていた時代のことを思い出した。


メールでは、このような盛り上がりにはならない。大学院を修了してポスドクになって以降、膨大な時間をメールに費やしたと感じている。チャットツールやslackなどのグループウェアの登場以降においては、メールで行う議論は、世界の時間の浪費でしかないとすら思う。最近では、プロジェクトの成熟度やフェーズに応じて、僕は学内でも「メールは書類とみなしている。メールではこの件について議論をする気はない(報告事項の承諾作業は可)。」という旨を、明言することすらある。


オンデマンドも捨てたものではない:それは本と似た様な

「リアルタイム性は重要だなぁ」という話をしたところだが、とはいえ、オムニバスで担当していた講義の最終回の感想(200人強)を読み終えて思ったことがある。それは「オンデマンドでも、伝わるのだな」ということ。

PCの使い方や統計ソフトの使い方の授業の動画撮影は、僕にとっては慣れれば結構容易なことだった。解説動画みたいなものなので、わかり易ければそれで十分だからだ。

しかし、いわゆる普通の講義に関しては、始めは非常に苦痛で、録画が疲れた。よく言われる様に「聴衆のリアクションがないとやりづらい」ということは、確かにある。しかし、8割が寝ている授業の方が苦痛なので、問題はそこではないように思える。

最初のうち、大変だったのは、言い間違えや思考の淀みを、僕自身が感じた際に、言葉が出てこなくなるということだった。それで、何度も録画を止めた。

これは、自分との闘いとも言えるし、録画をすることで自分の足りない部分が映し出されていくことへの苦痛感でもあると、僕は解釈している。足りない点は、内容の拙さであるかもしれないし、自分のしゃべりのうまさであるかもしれない。

ただ、この様なことを感じている際に、そのとき自分が向き合っているものがなんなのかということを考えた。この時の僕は、動画を作成すること、うまく喋るという行為に向き合ってしまっていたような気がしている。つまり、ディスプレイの向こうにいる人に、何かを伝えるということに、向き合っていなかった。

例え目の前にいなくとも、ディスプレイの向こうで見ている人に語りかける。これは、自分自身に語りかけるという行為とも言えるかもしれない。とにかく、動画作成という作業に向き合ってはいけない。語ることだ。

この点に気付いてからは、正直、自分でもうまく喋れるようになっていたと思う。作り終えた時には、それなりの達成感があった。この様な行為を、日常的に上手に運用しているのは、NHKの時論公論だと思う。

結果として、僕の感触と学生のリアクションは一致した。つまり「何を伝えたいか」ということ、その表現に注力した僕のオンデマンド授業では、最後の回の感想としても、僕の意図した箇所が「伝わった」とするコメントが、想像以上に多数寄せられた。授業が楽しかったかどうかは別としても(そう書いていることがお世辞だとしても)、僕が「重要だ」とした箇所を、具体的な用語や学生自身の体験を引き合いに出しながら的確に捉えてコメントして感想を提出しているのだから、学修は成立したと言える。


よくよく考えてみれば、オンデマンドのコンテンツというもの、それが果たす機能は、本のようなものだ。そう考えると、一層、「オンデマンドが良いか、オンライン(リアルタイム)が良いか、対面が良いか」という議論は、無意味なものに思える。紙であれ、電子であれ、本の価値を疑う者はいないだろう。遠隔授業に関して、このような議論が起こるのは、時代が追いついていないだけといえる。

リアルな現場で人と会い、交流し、議論し、共感とともにコラボレーションを進めることの重要性が叫ばれて、もはや久しい。それゆえ、ワークショップや行政による市民参加型イベント、それらを経た意見聴取が増えているし、その場を円滑に運営するためのファシリテータやインフルエンサーも増えている。それらが重要であることは、間違えない。しかし、そのことは、1人で静かに、じっくり何かを聴いたり読んだりすることの価値を否定することにはならない。かつて、科学コミュニケーションの領域で、双方向性を重んじるあまり、一方向の情報伝達を忌避していた時代があったが(興味のある人はこちら、もしくは、欠如モデル について)、この時の議論と、昨今の遠隔授業にまつわる不満や議論は似ているようにも思う。

オンデマンド教材は、映像メディアであるというだけで、本が担ってきた役割と似ているところがあると思う。1人で何度も見返すことができ、一度作れば、作者が何度も語らずとも、世界中の何人にでもみてもらうことが原理的には可能だ。対面のコミュニケーションでは伝えきれない多数の人に、情報を届けることができるし、これを可能にした書籍というものが、世界の教養レベルを底上げしてきた。特権階級以外が情報に触れる機会が増えることで、知識が民主化されたわけだ。

この方向性は、止まらない。それは、YouTuberやNetflixの隆盛をみても、明らかで、その是非をこれまでの制作者側が議論する間もなく、人々は受け入れている。アニメが好きな僕自身も、インタラクティブではないという理由だけで、オンデマンドコンテンツが何かを伝える上で弱いメディアだとは、到底思えない。今後は、超売れっ子非常勤講師が現れ、オンデマンド授業動画を大学に販売するということもあり得るだろう(だとしても、対面授業の価値が減ずるわけではなく、適材適所の選択肢が増える、ということ)。


今を「かけ捨て」にしない

もうこれまでと同じ日常に戻ることはない。

それは、コロナがしばらく続く、もしかしたらインフルエンザの様に毎年の流行を引き起こすウィルスの一種として定着する、また別の感染症が流行るなど、様々な可能性を含む。

それ以上に、これまで世界の少なくない人々が既に気付いていた未来の社会の在り方に、この数ヶ月で多くの人が気付いてしまったということのインパクトが大きいだろう。シリコンバレーの話だと思っていたカルチャーが、この社会にとって日常的に必要な、実用的な課題であると、社会が気付いた。社会の想像力が増したと言っても良い。これまでとは異なる加速度を感じるだろう。

それゆえ、この数ヶ月に行ってきた対応を、その場しのぎのものと捉えているとすれば、その様な組織やコミュニティは取り返すことが難しい遅れを背負う。


その様な想いで、僕自身、オンデマンド教材は、今後も使うことを前提に作成した。学部全体で複数クラス行う授業であれば、共通の教材とすることで、教員の担当ローテーションが楽になり、クオリティコントロールも可能になる。また、オンデマンドを用いて反転授業にして、対面ではディスカッションに重点を置くことも可能になる。配慮すべき理由で欠席した学生さんへの対応もしやすい。

そもそも、この社会には、その場限りの仕事、もしくは、そのような仕事をする人が多すぎる様に感じる。来年の自分、もしくは、自分の後任は、同じ仕事をもっと楽にできるようになっていなければ、おかしい。その「楽になる」余白がなければ、新しいことをすることもできないし、社会をよりよくするということにリソースを割けない。「楽になる」ということが、社会がよくなる1つの指標でもある。

最近では、自分にとって、組織にとって、蓄積とならない様な仕事は、極力断るか、そもそもその業務自体を無きものにすることを行動指針としている。また、学生にもそのような作業指示をしない様に心がけているつもりだ。そうでなければ、カミユの不条理のようではないか。

社会の労働生産性が上がらない理由は、ここにあるだろう。今後、そのことに気付くか否かが、組織やコミュニティの明暗を分ける。


現在の僕の課題について- 学会ポスター発表や本屋的体験

授業については、僕の中では今後の運用に関し、すでにノウハウはできている。今なやんでいることは、学会におけるポスター発表だ。最近の学会は、口頭発表よりも多くの演題が、ポスターによって行なわれている。院生や若手にとっては、研究発表の主要な手段になっており、これが行なわれないと、この数年の若手育成の問題となる。

3月くらいまでは、今年はどこも学会なんてやめれば良いのではないかと思っていた。しかし、若手育成としての機能の問題や、コロナ終息の不透明さを鑑みると、このポスター発表のオンラインでの開催方法を検討する価値があると気付いた。ただ何かをするだけなら、可能だが、盛り上がらなければ意味がない(かけ捨ての作業である)。

口頭発表の講演は、Zoomでも事足りる。多くの発表を同時並行で開催し、若い人の未発表データをどのように提示すれば、研究内容の機密保持や有意義な議論を両立できるのか。


そもそも、ポスター発表における体験の本質とは、なんだろうか。その本質を見定めれば、オンラインでも手段はあるのではないか?

予め要旨を読んで聞きにいこうと狙いを定める演題もあるし、会場を歩いていて目に止まったポスターに立ち止まることもある。発表者がその場にいれば内容を直接聞くし、いなければポスターを眺める。

この全体を「眺める」という行為が、重要なのではないか。

そしてこれは、オンラインで最も難しいことかもしれない。例えばそれは、本はAmazonでも買えるが、本屋や図書館でたまたま気になった表紙の本に出会い手に取るような体験が、いまだwebでは乏しいことにも似ている。この体験には、本屋や図書館のスタッフによるレイアウトの仕方も大きく関係するし、学会であれば研究テーマの近いポスターが並んで掲示されていたり、ばったり知人と出会って議論が始まる、そんな要因も影響している。

これまで、グループウェアや、Remo、Spatial.chatなどの使用を検討しようと思っていたが、何かを眺めて関係することがつながっていくという作用を重んじるならば、Scrapboxが適しているかもしれないと、思いついた。


実際、研究関係のサイトや、授業用のサイトとしての活用事例もあるらしい。

https://scrapbox.io/wakaba-manga/第1話_Scrapboxってなあに?

あとは、コアタイムにリアルタイムのチャットやボイチャができれば、完璧かなと思ってきた。


近々、自分の研究分野の文献整理と解説をnoteの記事としてまとめようかと思っていたが、これもScrapboxを使って、日々少しずつ更新し、タグ付でリンクしていくのが良いかもしれない。


季節も、どんどん夏へと移ってきた。




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