見出し画像

宝さがしぐらいの気分で現代アートを楽しもう

直島をはじめとする地域密着型のアートイベントもだいぶ定着してきたと思う。瀬戸内海の島々をめぐりながら楽しむアートは、美しい豊な自然と現代的なアートとと言う、自然と人工物の両極端の美しいものを一度に味わえる体験を提供してくれる。まるでチョコレートとポテトチップスのような関係だ。甘いものの後に塩辛いものを食べることで、それだけを味わうよりずっと味が引き立つあの感じに近い。美術館に訪れるだけでは味わえない楽しさがあるから、何度もリピーターを引きつける原動力になっているのではないだろうか。

とは言え、私たちの日常は、芸術祭とは異なる延長線上にある。意識していないと毎日似たようなことの繰り返しに見える、あの日常だ。この何も起こらない日常に、ちょっとのスパイスを取り入れるために日常使いの現代アートを提案したい。カモミールティーのような穏やかな日常に、ジンジャーシロップを数滴垂らして変化を試みぐらいの冒険心さえあれば、それで充分だ。

現代アートが好きな私にとっては、シンプルにこの楽しさにみんなを巻き込みたいだけなのだけど、それを伝えるために作ったプレゼンテーションがあるので、今回はその時のものを利用してみたいと思う。

現代アートの楽しみ方 のコピー (1)

現代アートの楽しみ方 のコピー (2)

このビジュアルは、電話が世の中に普及し始めた時のものだ。電話をすることの喜びの表情が現れている。もしかしたら恋人同士の初期のうっとりとした感情を表しているのかもしれないが、スマートフォンさえ当たり前の私たちにとっては、自分の声の反響は、居心地の悪いものでしかないのではないだろうか。それに対して、この当時の人は、くすぐったいと、それさえも楽しんでいることが伝わる。

この感情は、現代に生きる私たちにとっては自然に味わうことができず、その当時の衝撃を理解するには、それなりの知識や想像力を要求されることになる。

現代アートの楽しみ方 のコピー

この2つの絵を単純に比べた時、左の印象派の絵の方が自然で穏やかで安心して鑑賞できるように見えないだろうか。

現代アートの楽しみ方 のコピー (3)

有名な話しでもあるが、登場した当時は、絵画界では大きなバッシングが起こった。が、その当時の人が何に対してそこまで興奮して反応しているのかを理由を聞いただけでは、直感的にわかりにくい。

現代アートの楽しみ方 のコピー (4)

それを紐解くためには、当時の人々にとって絵画とは何だったのかを理解する必要がある。ジュロームの絵画は、今見ても立体的で美しくてドラマチックだが、当時はこれが正当とする見方が多く、それから逸脱する印象派は、絵画としての地位をなかなか認められなかったのだ。

現代アートの楽しみ方 のコピー (5)

これまで王宮や貴族が社会を牛耳っていたが、この後フランス革命も起こり、経済の力で新しい階級にのぼりつめた資産階級の人々は、これまで自分たちを抑圧していたものとは異なるものを求めるようになった。

インターネットが出てきた当時は、単なるおもちゃだと扱った既得権益層が、インターネットありなし論を繰り広げたのと似たような現象である。ちなみにiPhoneも日本では普及しない論が主張されていたこともあった。既得権益がひっくり変える時代には、その時の象徴となるものに対して嫌悪感や危険性を感じるのは、どの時代も同じようなものなのかもしれない。印象派が出てきた当時は、その社会的な背景も相まって、その時代を象徴するものとして既得権益層からのバッシングが相次いで出てきたのだった。

と、ここまで理解した上でやっとおぼろげに印象派が当時革命的であった理由がわかるのではないだろうか。もし、当時の人々が受けた衝撃を感情レベルで理解したいと思った場合、少なくとも本数冊分を読まなければわかり得ないのではないかと思う。

現代アートの楽しみ方 のコピー (6)

それに対して、現代アートは、私たちが生きている今が反映されているので、実はわかりやすこともある(もちろん、難解なものもある。)が、私にとっての魅力は、新しいものを知り、それによって初めて経験することができる感情を味わえることだ。感情だけはどんなに知識が増えても、そのもの自体を味わないと分からないことが多い。

よく年頃の子が、メディアを通して恋愛の知識だけ増えていき、「耳年増」と言われることがある。耳年増は、耳年増なりの楽しさがあるが、やっぱり恋愛は体験しなければ分からないことがいっぱいある。それは自分のこともそうだし、相手の反応も含めて一般論では片づけられないことが多い。現代アートは、耳年増になる以外の方法でアートを味わい尽くすことができる唯一の方法ではないだろうかと思う。とは言え、実際の恋愛より小説やマンガの世界の方が面白いと言う人もいるし、それはそれでありだと思うし、私も別の時代に恋をしたりもする。

だけど、それでもやっぱり、ちょっとだけでも冒険して欲しい。確実に楽しめるとわかっているものを楽しむ安心感もいいけど、「まさかこんな人を好きになるなんて」、と、周りも自分も驚くような恋が小説の中で描かれてウットリするぐらいなら、自分の生活にもちょっとした冒険を取り入れてみたいと思う。もちろん、現実はガッカリすることも多いのだけど。

現代アートの楽しみ方 のコピー (7)

時代の評価がまだ定まっていない現代アートを巡る旅は、運命の人を探す行為とどこか似ているのかもしれない。まれにあるビビっとくる出会いというものが、期待していないタイミングで訪れることがある。それが私にとっては、冒頭で「どちらの絵が革命的?」の例で出した、李禹煥の作品である。

現代アートの楽しみ方 のコピー (8)

これまで絵画は静的なものであると信じ切っていた私にとっては、その場にいることでクルクルと体験が変わってくる絵画との出会いは、衝撃そのものだった。この巨大な作品は、決して写真では伝わえることができない体験をその場でいる人のみに提供してくれる。

李禹煥に興味を持った私は、アーティストについて調べてみる。彼は、「モノ派」と言う美術の動向に属する人らしいことがわかった。

現代アートの楽しみ方 のコピー (9)

モノ派が目指していたものや、李禹煥の言葉をキーワードとして出してみたが、この文章を読むだけでは、私が体験したモノ派の巨匠が作り出した作品について1ミリも私には理解ができない。文章だけで理解するには、どれだけの本を読めばいいのか分からないぐらい膨大になりそうだ。それが、たった1つの作品を体験するだけで何を言っているのかがわかる。

それは、大恋愛の後の失恋に似ている気がする。

失恋でこの世の終わりと言わんばかりに落ち込んでいる人に対して、「男(女)は星の数だけいるさ」と慰める人がいる。事実かもしれないが、同時にそれは、その人が恋をまだ経験したことがないから言えるのかもしれない。落ち込んでいる本人だって、充分知っている事実だけど、その客観的な事実が無意味になるのが恋する人の真理ではないだろうか。理性だけでは処理できないものがこの世にはあるのだと思い知らされる。

現代アートもどんなに言葉多く語ったとしても、体験する前と後とでは、同じ言葉が違うものになる。合理的であること、理性的であることを求められる社会に窮屈さを感じはじめたら、宝探しにギャラリーに出かけるのはいかがだろうか。そして大切なことだけど、宝は滅多に見つからないから宝であること。宝は、90%ぐらいの高確率の失望を覚悟した人だけに訪れるのかもしれない。

*2015年の作品だが、今でもこの作品のことを時折思い出す。私にとっては思い出深い出会いの一つとなっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?