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野菜嫌いの絶対神 〜私と一神教との思い出〜

最近、X(旧ツイッター)のタイムラインにて、宗教についての議論が交わされていました。私個人としては、積極的に話題に参加はしていなかったのですが、それを眺めている際に、ふと少年時代のことを思い出したため、エッセイとしてまとめることにしました。  

私は子供の頃、聖書を読んでいました。深く読み込むことはしませんでしたが、少なくとも同年代の友達より、聖書には触れていたと思います。

その理由として、私の母の友達に、「エホバの証人」の信者がいたことが挙げられます。母は友達とお茶会などで会うたびに、エホバの証人から発刊されている雑誌を貰ってきていた為、それらが普通の雑誌と同じくらいの違和感のなさで、家の中に置かれていたことを覚えています。

エホバの証人は何かと問題がある宗教であるといわれていますが、少なくとも、母の友達はいたってまともであり、強引な勧誘などは無く、母との関係も良好であったと記憶しています。私の家は、曹洞宗の檀家ではありましたが、別の宗教に触れることについて忌避感が薄く、先に書いたように、母親がエホバの証人の友達との関係が良好であったことで、仏壇の横に「目ざめよ!」や「ものみの塔」などが置かれていることが我が家の日常風景になっていました。そして私もそれらの雑誌を、暇な時にパラパラとめくって読んでいました。

まあ、もちろん子供でしたので、難しい漢字や難解な文章もあり、完全に理解することはできませんでしたが、TVでは得られない科学や自然についての情報が載っていて、ネットがない時代でもあったので、面白く読んでいました。さらに世界平和や動物愛護、さらに環境保護の大切さなど、一般的に“良い”とされていることも書いてあった事は子供ながらに分かりました。だからこそ、母親は息子である私が読んでも問題がないと思っていたのでしょう。

その関係上、聖書も家に置いてありました。これも母がその友達から譲り受けたもので、子供用の、文字が大きく絵がたくさん描かれている分かりやすいものでした。それを夜寝る前などに、母が読み聞かせてくれていたのを覚えています。

今思えば、母親は聖書の読み聞かせによって、最大公約数的な倫理や道徳を私に教えようと思ったのだと思います。子供向けの聖書でしたから、過激なことや残酷な描写がほとんど無いそれを読み聞かせることは、子どもの教育にとって少なくともマイナスにはならないと母は判断したのでしょう。

ところが、これが家庭での食事の際に、思わぬトラブル(というほどでもない些細なことですが)を招くことになりました。

私は味覚に関しては、ごく一般的で健全(?)な子供であった為、肉が好きで野菜が嫌いでした。そのため食事の際には、食卓上の数々の野菜をいかにして回避するかという攻防を、両親と繰り広げていたものです。

もちろん、子供であった私がいかに野菜を食べたくないかを感情論で話しても、大人である両親に論戦で勝てるわけがありません。そこで私は一計を案じました。聖書の中にある「カインとアベル」を引き合いに出したのです。

この話を簡単に説明します。


 カインとアベルという名の兄弟がいた。兄カインは農耕を、弟アベルは牧畜を行っていた。
 ある日2人は各々の収穫物を主(神)に捧げた。カインは畑で採れた収穫物(野菜)を、アベルは羊の初子を捧げたが、主はアベルの供物に目を留めカインの供物には目を留めなかった。これを恨んだカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。
 その後、主にアベルの行方を問われたカインは「知りません」と嘘をついた。カインはこの罪により、エデンの東にあるノドの地に追放されたという。


この話にでてくる兄弟、カインとアベルですが、アダムとイヴの子供です。聖書によれば、知恵の実を食べるという行為により、アダムとイヴは原罪を背負いました。そしてその息子であるカインは人類史上初めての殺人を犯し、そして主(神)に対して初めて嘘をついたのです。

この逸話を引き合いに出して子供の私は言いました。

「神様だって野菜が嫌いなんだから食べなくていいじゃん!」

エホバの証人の聖書であった為、神は“エホバ”とされていましたが、それが、全知全能の神であることは子供であった私にも理解はできました。その絶対的な存在がカインの貢物である農作物(野菜)を喜ばなかった...私はそれを“神は野菜嫌い”と無理やり解釈して、嫌いなものを食べないために利用しようとしたのです。

それを聞いた母は、かなり困惑した様子でした。母親が聖書を読み聞かせたのは、上で書いたように、洋の東西を問わない道徳や倫理を私に身につけさせるためです。先の「カインとアベル」であれば、他人が褒められたとしても嫉妬しない、嘘をつかない、そして(当たり前ですが)人を殺さない...そのようなことを私に読み取って欲しかったのでしょう。

母にとって、話に出てくる絶対神である“エホバ”についてはとくに重要ではありませんでした。日本において、古くから子を戒める際に使われてきた、「お天道様はいつも見ているからね」「悪いことすると地獄で閻魔様に舌を抜かれるよ」などの言葉に登場する、“閻魔大王”や“お天道様”と同等の存在だと考えていたのだと思います。

そのような上位存在が「野菜が嫌い」という世俗的なことを考えるという発想、そしてそれを我が子が野菜を食べたくないための口実に使うということに母は戸惑っている様子でした。

最終的に父の仲介もあり、「お前は面白いことを考えるな」と言われ、その時に限り、野菜を食べることは免除されて場が収まりました。

...まあ、次からは、巧みに言いくるめられて、野菜と格闘するハメにはなりましたが。

大人になった今でも、宗教、特に一神教の話題が出るたびに、この事を思い起こします。子供時代に刷り込まれた、かなり印象深いエピソードだと思ったため、今回はエッセイとして文字に残すことにしました。

そして...エホバの証人のベースとなったキリスト教のその又ベースとなったユダヤ教が、ユダヤ人の為の民族宗教であり、なおかつユダヤ人が元々遊牧民であったことを学んでから再度、「カインとアベル」を読み直すと、また別の解釈ができる面白い話だな、と子供の頃の思い出を反芻しながら思うのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。





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