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備忘録:パレスチナ問題2


前回の続きです。第一次中東戦争からハマス台頭までです。
前回↓


キーワードの解説

パレスチナ人の宗教
パレスチナ人の大半はイスラム教徒である(約 9割がイスラム教徒のスンニー派、残りの約 1割がキリスト教徒)しかし、少数であるがユダヤ教徒もいる。
このユダヤ教徒は19世紀末に、ユダヤ人と共にパレスチナに移住したのではないし、他のアラブ諸国から移住してきたのでもない。代々パレスチナの地に住み続けていたユダヤ教徒であり、イスラム教徒やキリスト教徒と平和に共存していた。彼らは現在イスラエルの市民となっているが、パレスチナ人と解釈してよい。

イスラエル市民権を持つパレスチナ人
イスラエル国内に、イスラエル市民権を持つパレスチナ人は148万人おり、イスラエルの人口の 20パーセントを占めている。
イスラエル市民は全員兵役の義務があるが、アラブ系市民は例外で兵役を免除されてはいる。その理由は大半のユダヤ人が彼らを信用しておらず、武器を持たせたくないからである。
彼らはイスラエルにおいて二級市民的な扱いを受けている。

パレスチナの歴史(第一次中東戦争以降)

1947年の国連のパレスチナ分割決議においては、パレスチナの 55パーセントをシオニストに割り当てていた。ユダヤ人の人口は 65万に対してパレスチナ人は 100万を超えていた。数が少ないユダヤ人に多くの土地を与えるこの決議にパレスチナ人は当然反発した。

イスラエルの領土拡大

パレスチナを支持するアラブ諸国はこれに軍事介入し、1948年に第一次中東戦争が起こった。しかし、シオニストはこれを打ち破り、その結果として国連決議が決めた以上の土地を支配することになった。それは、パレスチナ全域の約 78パーセントにも及ぶ。

ここで発生したのがパレスチナ難民問題である。イスラエル建国により、75万人にも及ぶパレスチナ人が自分たちの土地から追放さることになった。

そして1964年にエジプトでアラブ連盟が開催した第一回アラブ首脳会議において、イスラエル建国で難民となったパレスチナ人の対イスラエル闘争の統合組織であるPLOが設立された。

アラブ諸国とイスラエルの対立は続き、1956年に第二次中東戦争、 さらに1967年に第三次中東戦争が起こった。

第三次中東戦争ではイスラエルがエジプト、ヨルダン、シリアを打ち破った。そして、残された22パーセントの土地(エジプトが支配していた西南のガザ地区と、ヨルダンが支配していた北東のヨルダン川西岸地区)をイスラエルは奪い支配下においた。

さらにイスラエルは、パレスチナと考えられてきた範囲の外側の土地であるエジプトのシナイ半島、そしてシリアのゴラン高原を奪った。そして、ここにユダヤ人が移りはじめた。これは占領地における入植であり、今現在も入植地は拡大している。

イスラエルに一矢報いた英雄アラファト

第三次中東戦争においてのアラブ諸国の敗北を見て、パレスチナ人は自ら戦うしかないと決意を固めた。その先頭に立ったのがヤセル・アラファトである。

1929年にアラブ人としてイェルサレムに生まれ、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)、第2次中東戦争(スエズ戦争)にアラブ軍兵士として参加、1959年頃、「アル=ファタハ」という武装集団を結成した。

アラファト率いるゲリラ部隊はまずヨルダン川西岸のイスラエル軍をまず攻撃。1968年、イスラエル軍は、アラファトのゲリラを追って、ヨルダンのカラメという村に侵攻した。ここでアラファトのゲリラたちは、反撃してイスラエル軍を退却させた(カラメの戦い)。エジプト、シリア、ヨルダンの軍隊を 6日で敗走させたイスラエル軍に、パレスチナ人のゲリラが一矢を報いたことにパレスチナ人は歓喜し、アラファトは英雄となった。 そして影響力を増したアラファトは1969年に PLO( パレスチナ解放機構)の、第 2代議長に就任した。

アラファト率いるパレスチナ・ゲリラはヨルダンを拠点としていたが、第三次中東戦争により多数のパレスチナ難民がヨルダンに押し寄せたことと合わせて、ヨルダンの王政を脅かすと考えた国王アブダラはイスラエルと交渉をした。その為、パレスチナ人の怒りを買い、暗殺されてしまう。その後継者は、孫のフセインとなった。

1970年にフセイン率いるヨルダン軍とパレスチナ・ゲリラが衝突するヨルダン内戦が勃発した。この内戦ではヨルダン軍が勝利を収め、敗れたアラファトはレバノンへと逃れた。そして、この際にも多数のパレスチナ人が殺された。アラファトは、今度はレバノンからイスラエルへの攻撃をはじめた。

1973年、エジプトとシリアがイスラエルを奇襲攻撃して、第四次中東戦争が始まった。この戦争後にエジプトは、イスラエルとの和平を選択し、 1979年にアメリカの仲介によってキャンプ・デービッドの合意に達した。 エジプトは、イスラエルを承認し平和条約を締結した。そしてイスラエルは、第三次中東戦争の際に占領したシナイ半島をエジプトに返還した。

イスラエルは建国当時より、北をシリア、南をエジプトという2つの敵対する国で挟まれた状態であった。しかしエジプトと結んだ平和条約により南からの脅威については心配しなくてもよくなった。

1982年、余裕ができたイスラエルは北のレバノンに侵攻。そこを拠点にしていたパレスチナ人ゲリラの絶滅が目的である(イスラエル側の作戦名はガラリヤの平和作戦)。イスラエルによる侵攻よって包囲されたアラファト率いるPLOは北アフリカのチュニジアに亡命した。この侵攻に対してアラブ諸国が動くことはなかった。

ゲリラが退去するとパレスチナ人難民キャンプが無防備になった。イスラエルと同盟を結んでいたレバノンのキリスト教徒の勢力がそのひとつに押し入り、難民を虐殺した(サブラー・シャティーラ事件)。周囲のイスラエル軍が虐殺行為を止めることはなかった。

パレスチナでの第一次インティファーダとオスロ合意



パレスチナ占領地(ガザとヨルダン川西岸)では1987年から自然発生的に、民衆の大規模な抵抗運動が起こった。これをインティファーダという。民衆は抗議のために投石をし、タイヤを燃やして交通を妨害した。武力蜂起ではなかった為、イスラエル側も銃火器で鎮圧するわけにはいかず困ってしまった。そしてインティファーダの影響で、イスラエル国内でもパレスチナ人との交渉を求める声が高まってきた。

1992年にイスラエルでラビンが首相に就任した。そしてラビン政権の外務大臣であるシモン・ペレスの側近が、密かにノルウェーで、アラファトと会談をした。1993年、両者は合意に達した。これをオスロ合意と呼ぶ。これによりパレスチナ人の抗議活動である、インティファーダも終わることとなる。

イスラエルと PLO(パレスチナ解放機構)との間のオスロ合意は大きくまとめると3つに分かれる。

1.イスラエルと PLOの相互承認
イスラエル政府がそれまでテロ組織としていたPLOをパレスチナ人の代表として認めた。

2.イスラエルが 1967年に占領した地域の一部でのパレスチナ人による自治の開始
これによりパレスチナ人は政府を持つことになった(国家ではなく、あくまでも政府であり、軍事部門は認められていない)。また、その自治地域は非常に狭いものとなった。
これによりアラファトはパレスチナに戻り、パレスチナ自治政府の指導者となった。アラファトの支持母体であるファタハという組織が、選挙により議席の過半数を占めた。

3.その他の問題の交渉の先送り
イスラエルと将来のパレスチナ国家との最終的な境界、あるいはエルサレムの地位、パレスチナ難民をどうするのかなどの重要な問題が、将来に先送りされた。

その後の交渉でイスラエルは、占領地におけるパレスチナの人口密集地から撤退し、確かにパレスチナの自治地域はわずかに拡大した。しかしイスラエルはヨルダン川西岸地区の土地を奪い続けた。

オスロ合意の一番の問題は、イスラエルの占領地への入植活動に関しては、何らの規制も行っていないことである。占領地の将来についてイスラエルとパレスチナ側が交渉をしようとしているのに、交渉の対象を一方的にイスラエルが侵食しているのだ。

次のようなたとえがある。ピザをどう分けるかを二人で話し合おうとしているのに、そのうちの一人(イスラエル)がピザを食べ続けているのである。

第二次インティファーダとアラファトの死

2000年、イスラエルの有力政治家のシャロンがエルサレムのイスラム教の聖地に入った。これはエルサレムのすべてが、イスラエルの支配下にあると示すための行為であった。 これに対してパレスチナ人は怒り、占領地全域で再び抗議行動が燃え上がった。第二次インティファーダが勃発することとなる。今回の抗議においてパレスチナ人は、銃を使い自爆攻撃まで行った。

それに対してイスラエル首相となったシャロンは強硬策に打って出た。圧倒的な軍事力を行使し、多くの死傷者が出た。

指導者のアラファトはイスラエル軍により軟禁状態となり、2004年にパリの病院で死亡した。その後、部下のマフムード・アッバースが後継者となった。シャロン首相は、占領地への入植政策を加速した。

ハマスの台頭

シャロンの政策に、パレスチナ人の不満がつのり、結果としてイスラム組織ハマス( Hamás)が支持を拡大した。ハマスには、「燃え上がる」という意味がある。

1987年に発足したハマスという組織の源流は、ムスリム同胞団という 20世紀の前半にエジプトで起こった組織である。イスラム教の教えを正しく実行していこうと主張し、エジプトから各国へ組織を広げ、それがパレスチナ人の間にも広がった。しかし、イスラエル政府は、それを抑圧せず黙認した。

パレスチナ民間人に対するPLOの影響力拡大を嫌ったイスラエル政府は、このムスリム同胞団をPLOのライバルとして育てたかったのである。そして、このパレスチナのムスリム同胞団が、第一次インティファーダとともにハマスとして活動をし始めたのである。

アラファトが指導していたPLOが比較的穏健な路線を歩んでいたのに対して、ハマスは過激であった。イスラエルを全く認めず、国際的に認められたイスラエル自体を解体し、パレスチナ全体にイスラム国家をつくる。これがハマスの公式な立場である。

ハマスの勢力拡大の要因は主に三つ。

1.和平の停滞
前述したようにオスロ合意は結果として問題解決を先回ししただけであった。

2.アラファトの死
様々な批判もあったものの、カリスマ性があるリーダーアラファトの死によりPLO(とその主流派であるファタハ)は求心力を失った。

3.ハマスの社会活動
ファタハが主導する自治政府は非効率で汚職の話が常に付きまとっていた。たいしてハマスにはそのような噂はなく、お金に対してクリーンだというイメージが民衆にはあった。さらにパレスチナ人のために病院や学校を運営しており、人道 NGOの側面もあった。パレスチナ住民のための活動が、ハマスの支持基盤の強さの1つである。

2006年のパレスチナ立法評議会( PL C)での選挙で、ハマスが過半数を制した。しかし国際社会は、ハマスはテロ組織であるとして、勝利を認めなかった。

パレスチナ自治区は、イスラエルとヨルダンにはさまれたヨルダン川西岸地区(中心都市ラマッラ)と、イスラエルとエジプトにはさまれ地中海に面するガザ地区(中心都市ガザ)のふたつから成る。

ハマスの地盤はガザで強いが、ヨルダン川西岸では、ファタハが権力を握ったままである。これにより両者の対立が深まり、最終的にパレスチナ自治区は、ファタハが支配するヨルダン川西岸とハマスが支配するガザ地区の2つに分断されてしまうことになる。

続きます。次のnoteです↓


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