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356 太宰の故郷 津軽・金木を訪ねる


津軽を旅しています。五所川原から津軽鉄道に乗ってやってきたのは金木駅。津軽鉄道の中では最も大きな中間駅です。金木地区はかつては金木町でしたが現在は五所川原市の一部になっています。

金木は小説家太宰治の出生地として有名です。太宰ファンをはじめ津軽を旅する観光客の多くがこの地を訪れます。
太宰治の本名は津島修治。太宰は津軽弁だと「つ」や「じ」がなまってしまうことを嫌い、津軽弁でもなまらない太宰治というペンネームをつけたと言われています。

駅から金木一の観光スポットである「斜陽館」に向かうこの道は「メロス通り」と呼ばれています。誰もが一度は読んだことのある「走れメロス」から命名されました。親友との約束を果たすためこの道を走ります(?)。

メロス通りを歩いて(走ってない)8分ほどで斜陽館に到着しました。
この家は太宰治が中学入学のために転居するまで暮らしていた場所です。太宰の父はこの地域の大地主で衆議院議員の津島源右衛門。今の時代から見てもとても大きな家屋であり重厚感を感じさせます。太宰がいかに裕福な暮らしをしていたかがわかります。

中に入ってみます。1階は大広間になっていて襖を外せば4間続きの63畳の部屋として使うことができます。地元の名士ということもあって多くの地域の人が集まる機会があったのでしょう。

建物は青森県産のヒバで作られています。きれいに磨かれた廊下に明かりが反射していて、廊下伝いにまた多くの部屋が続いています。

2階にも何間も続く和室があります。

こちらは少し雰囲気の違う部屋です。何や他商売っぽい雰囲気が漂います。実は津島家はこの地で「金木銀行」という金融機関も営んでいました。ここは銀行としての部屋。斜陽館は明治末期の銀行建築としても今に残る貴重な建築遺産なのです。なお、金木銀行は第五十九銀行を経て現在青森銀行となっています。前回の弘前のブログで紹介した第五十九銀行本店はこの地の名工堀江佐吉が建築していますが、ここは棟梁は佐吉の息子が携わっています。

重厚な金庫もここに備えられています。太宰は他人に金を貸して金利で富を得るというこの稼業をあまり好きになれなかったといいます。

こちらは重要な打ち合わせに用いられたという応接間。応接セットや天井の壁紙、照明は当時のままのものです。

こちらは母、タネの部屋でしたが子供部屋としても使われてきました。太宰も多くの時間をここで過ごし、机を置いて勉強していたといいます。襖に貼られた漢詩に「斜陽」の文字が見えます。戦後の華族の没落を描いた「斜陽」は戦後間もない日本社会の流行語にまでなりましたが、そのルーツは少年時代この部屋で時を過ごしたことにあったのです。それまで「斜陽」に「没落」の意味はありませんでしたが、その後正式に国語辞典に載るまでに定着していきました。

貴賓室として使われていた「金襖の間」。父や長兄がここで議員を招いて宴会などを開いていました。

津島家は襖絵にもこだわりました。明治期の浮世絵師に描かせた春夏秋冬。議員の付き人の待合部屋として使われた部屋も見事な襖絵で飾られていました。

太宰がこの家にいたのは中学入学までであり、その後20年に亘り薬物依存や非合法活動に参加したため家に戻ることを許されていませんでした。それでもこの家で過ごした少年時代の日々を忘れることはなく「思ひ出」など作品の中で思いを馳せています。一時期翌太宰作品を読んでいましたが、久しぶりにまた読みたくなりました。

斜陽館を出ると向かいには物産館「産直メロス」があります。ここでもやっぱりメロス。

クラフトビールなどもある中で目をひいたのは地元の高校で作られた産品の数々。お米やリンゴジュースなどさまざまな商品があります。

私が選んだのは紅玉りんごジャム。一般のりんごより色が赤くマーマレードのよう。糖度のかなり高いりんごジャムです。今、朝食のパンにつけて毎朝食べています。

太宰を生み、生涯にわたり心にあり続けた津軽・金木。これから雪深い季節を迎えますが今訪ねるのが一番津軽らしいと思います。太宰ファンの方も一般の方も、在りし日の太宰の姿を訪ねにこの地を訪ねてみてください。


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